毛利両川体制

さて吉川元春の話が続きましたが父親である毛利元就に話を戻しましょう。策謀を重ねて、次男・元春に吉川家を継がせることに成功した元就。その一方で小早川家の相続問題で、当主・小早川繁平がまだ幼いこと、盲目であったことを理由に繁平を出家させるなどして三男・隆景に小早川家を継がせるように取り計らいます。

これにより元就は小早川氏の水軍を手に入れ、また以後に「毛利両川体制」と呼ばれる毛利家の補佐体制を確立、そして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏両家の勢力を取り込んだことによって、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしたのでした。さあ、毛利家はこれからどんどんとその勢いを増していきます。

しかし天文18年2月、元春と隆景を伴い山口へ下向しました。この時元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くまで伸びて、吉田に帰国したのは5月になってからでした。この頃の山口大内家は、主君の大内義隆の戦嫌いが加速し、陶晴賢ら武断派と文治派の対立が激しくなっていましたので、元就も病床の床にありながらも大内家の行く末を懸念していたのかもしれません・・・・。

因みにこの時元就を看病した井上光俊は元就への献身的な看病を感謝され、嫡男・隆元からお礼の書状を貰っています。この事が彼の身を助ける結果となるのは、また後日です。