秀吉の先手打ちと岐阜城陥落

さて、今回は賤ヶ岳の戦いのお話の続きです。戦局は段々と秀吉に有利に動いてきていましたが、ここにきて戦況は大きく動きます。秀吉は、雪で勝家が出てこれない内に、長浜城主となっていた勝家の甥である柴田勝豊を調略で自分の方に寝返らせたのです。

勝豊は勝家の甥で、勝家の養子となっていた武将です。ですが彼は日ごろから勝家が重臣の佐久間盛政を重用することに不満を持っていたのです。この盛政、佐久間性を名乗っていますが母親が勝家の妹なので、勝豊同じく勝家の甥になります。これは不満を持っていた事も、ある程度仕方のない事だったのかもしれませんね。因みにこの調略をやった人物は後に名前が出てくる大谷吉継です。

秀吉はさらに、信孝の岐阜城を攻め挙兵し、岐阜城を囲みます。信孝は降伏せざるを得ず、三法師を秀吉に引き渡した上、母らを人質として提出させられました。その後も秀吉は攻撃の手を緩めず、伊勢の滝川一益を攻めたてるなど、勝家に味方する勢力を次々と弱体化させていきます。滝川一益の抵抗は激しく5月半ばまで抵抗を続けますが、2月末、この状況を見過ごす訳にいかない勝家は雪をかき分けて進軍を開始する事になりました。

さて次回はようやく、二つの軍がぶつかり合います。後に賤ヶ岳の戦いと言われた合戦が、開始されます。