謀将の終わり

失った嫡男の息子である晴久に家督を譲った経久。しかしその後も後見人として働き続けます。特に息子輿久との争いもあったためか晴久の周囲を固めようとしたのか、次男である国久の娘を晴久と結婚させ、一族の結束を高めようとします。そしてその一方で石見銀山を手中に収めたり、安芸・備中・備後・美作に進撃する等、尼子晴久が後に十一州の太守と言われる事になる礎を築こうと老年ながらも戦い続けました。

しかしその後、大内氏は大友氏と和解して再び尼子家と戦を始める事になり、その際にせっかく手に入れた石見銀山を奪われるなど大内氏との関係は悪化の一途を辿っていきました。そのような中で発生した吉田郡山城の戦いでは大内の援軍を得た毛利元就に晴久の30000にも及ぶ大軍を撃退されてしまいます。これ以後、毛利家は大内氏につく形になり、完全に尼子の支配を離れます。そして毛利元就の率いる毛利家はその後、勢力を拡大していくのです。

毛利元就が台頭して尼子家の行く末に不安を募らせながら、ここに中国地方の勇・謀聖とまで呼ばれた男、尼子経久はこの世を去ります。享年は84歳。嘗て一度失い、そして取り戻した月山富田城でその生涯を閉じる事になりました。

滅びかけた尼子家を再興した謀聖は、最後の最後で子孫に自らが撒いてしまった負の種を刈り取らせる事になってしまったのでした。