陶氏との対立

天文20年、ご存知大寧寺の変により、大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反によって打倒され、養子の大内義長が大内家の当主として担ぎ上げられます。この件、特に当主の交代は元就も同意見だったようで、前々から晴賢と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握しました。そして謀反がなった後、晴賢は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるなど、この時点では元就と晴賢はまだ好意的な関係にあったようです。

元就はこれを足がかりに勢力を拡大、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめました。その後、1553年には尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退しているなどしているところをみると、着実にその勢力と力は増していっています。これには晴賢も驚異を抱き、支配権の返上を要求しました。

当然ながら元就はこれを拒否。両者は徐々に関係が悪化していきます。

そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻しました。晴賢の出陣依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたのですが、晴賢への不信感を募らせていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵が取り止めに。隆元は人質時代に大内義長に手厚く饗されていたので、晴賢の謀反に不満を抱いていたのでしょう。(まぁ人質時代に隆元と元就の窮地を救ったのも晴賢なんですが・・・)

これにより二方の関係は最悪化し、後の争いにつながっていきます。