西牟田家周と六五郎橋1

では今回は沖田畷のその後、龍造寺領内で起こったとある事についての逸話を一つ。

西牟田家周という武将がいました。その家周が支配していた地域、筑後には国城島村という村がありました。家周は当時、龍造寺配下にありました。ですが沖田畷の戦いで龍造寺家の当主・龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に討ち取られて、龍造寺家は明日を知れぬ状況に陥っています。

そんな中、豊後の大友氏の侵攻の報がきました。当主が討ち取られた今を好機と見たのでしょう。これに対抗すべく、家周はすぐさま行動を開始します。

家周は大友軍の来襲に備えて、城島の地の利を生かした城を築き上げる事を庄屋の樽橋六佐衛門に命じました。総出で死に物狂いになって工事をし始めました。筑後川の石垣は敵の這い登りを防ぐため、水面から垂直に組み、川に面しない三方には四重五重にも壕を掘りました。そして一番外にある壕の外に、水草や堆肥を埋めたりなどして足を取られやすいように工夫までなされていました。

ここで一番の敵は、時間でした。

工事は終わらないのに大友軍は進んでくる、しかもその将は音に聞こえた名将・立花道雪だと言うではありませんか。そこに加えて梅雨の末期だった事もあって大雨が続き、筑後川の水位が増していきます。増水してしまえば石垣も組めず、壕も掘れません。

六佐衛門は神主を伴い、神主を伴って水辺に祭っていた水神の祠でご託宣を仰ぎました。そこでは思いもよらぬご託宣がありました。