高橋鑑種の離反の真相・・・

さて、前回前々回と名前が出てきています、高橋鑑種。兄・一万田親実が大友宗麟によって妻を奪われた上にでっち上げの罪を着せられ事を恨んで、大友家より離反した武将ですね。

これだけ書くと大友宗麟が畜生以下かなり酷いですが、一応補足とフォローもしておきましょうか。実はこの離反、以前から兆候があった模様です。大友家内でも高橋鑑種はいずれ背くのでは、と言われていたようですね。そしてそれを裏で手引きしていたのはあの毛利家だったと言われています・・・。

まぁ、間違いなくきっかけは宗麟の兄への女房泥棒とでっち上げの罪きせて殺害のでしょうが・・・ここはフォローできませんね。すいません。

そして大友宗麟と言えばキリシタン大名として有名ですが、大友宗麟がキリシタンを振興し始めたのはこの頃だと言われています。キリシタン色欲駄目なんじゃ・・・

大友宗麟もこの頃精神的に弱ってたのでしょうし、キリスト教に救いを求めたのかもしれません。ですがまたそれが原因でいくつものトラブルが起きて、家臣団に不和と諍いが起きるようになっていきます。多くの諸勢力が大友家から離反した事にも、このキリスト教信仰による二次災害が多いようです。宗教はほどほどに、ということでしょうか・・・。

いやはや、色々難しいですね・・・。

九州

毛利「またきちゃった♪」

さて、家臣の妻を力づくで奪った上にその家臣にでっち上げの罪をきせて殺してしまった大友宗麟。もちろんそんなことしたら手痛いしっぺ返しがきます。この世は因果応報なのです。というか出家してるんだから色欲は慎めというものです。

さて兄を殺された恨みから家臣の高橋鑑種が大友家から離反。独立宣言をします。その上この酷く外聞の悪い事実が知れ渡ったのか前々からタイミングをはかっていたのか既にいくつかの家からは見切りをつけられていたのか、それとも全部でスリーアウトチェンジ状態なのか北九州の諸勢力も次々大友家から離反。その上以前大友家に壊滅させられていた秋月家もこの機会に挙兵。そして

毛利「来ちゃった♪」

大友「かえれ」

大友家に敗北した秋月家は毛利家を頼っていました。そして挙兵に合わせて毛利家に援軍を要請します。まだまだ北九州を手中に置く事を諦めていなかった毛利家。これ幸いとばかりに再びやって来ました。ええ確か毛利家と大友家は和睦を結んでいた筈ですが、そんな事は些細な問題です。歴史に詳しい方なら分かるでしょう。和睦にも約束にも指切りにも効果なんかないのです。しょせんその場しのぎです。

こうして再び北九州は動乱に巻き込まれていくのでした・・・。

九州

ついにやっちゃった・・・

さて、酒色にふける大友宗麟を厳しく説教して真っ当な道に戻そうとする立花道雪公。これほど熱心に自分の事を思いやって諫言してくれているのだから宗麟も心を入れ替えて誰もが目を見張る名君に・・・ならないのが大友宗麟クオリティ。

ついにやっちゃあいけない事をしてしまいます。家臣の妻に懸想してしまったのです・・・。

いや、懸想しただけならばまだ良かったのでしょう。相手は家臣の一万田親実の妻でした。美しいと評判のこの女性に懸想した宗麟、なんと一万田親実にでっち上げの罪をきせて処刑、その未亡人を我がものとしてしまったのです・・・畜生の所業じゃねぇか・・・

これに怒ったのが高橋家に養子に行っていた一万田親実の弟・高橋鑑種。兄がその妻目当てにいわれなき罪を着せられて殺されたというなら、誰もが激怒するでしょう。仕方のない事です。鑑種はよほど怒り狂ったのか主家大友家から独立を宣言してしまいます。名実と共に、大友家から離反したのですね。

しかし他人の妻目当てにこんな大騒動を起こしてしまうなんて、大友宗麟という人間は一体どうしてしまったのか・・・というか、えらく外聞が悪い離反ですね、これは。

そしてこの離反が更に大事になるのですが、それはまた次の記事で。

 

 

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道雪公の名の謂れ

さて前回から出て来ている大友家の名称にして老将、立花道雪公について今回は少しお話しましょう。

彼は若い頃に雷に打たれ下半身不随になりましたが、その時に雷を切ったと言われておりその刀の名はそこから取って「雷切」と呼ばれています。そして戦上手でも有名であり、毛利軍との戦いの中で矢に「戸次道雪公参らせ候」と書いて敵陣に打ち込むと、「あの道雪が来た・・・!」と驚きふためき士気がだだ下がりになるなど、その忠義からネームバリューまで広く知れ渡っている名将です。

さてそんな道雪公、立花道雪の名が通っていますがこれは主君大友宗麟と共に出家し、立花城を受け持った時の名で実際は「戸次鑑連」という名前です。歴史好きの方にはベッキーの愛称でも親しまれているようですね。

さてその立花道雪の出家名、正しくは「麟伯軒道雪」と言います。麟の字は主君大友宗麟から一時拝謁したものですが、道雪にはまた違う意味があります。

その字のごとく道に積もった雪のように、その姿消える時までそこから退く事はない、自らの命が消え尽きる瞬間まで主君に忠義を尽くす、という誓いの込められた名前です。

時代は戦国、主君は日替わり弁当の世の中で清廉潔白に生きた立花道雪は、数多くの人々に慕われていた名君だったそうです。

道雪公の天岩戸

すっかり酒色にふけり家臣の諌めも聞かず酒池肉林を楽しむ大友宗麟。それを必死に諌めるも聞き入れられず頭を抱える家臣団。そしてその期待を一身に集める鬼道雪こと名将立花道雪公。彼は如何にしてこの主君を収めるのかと周りが思っていた所、なんと道雪もまた屋敷にこもり、美女を集めて日々宴会をしているという。

遂に宗麟に影響されて道雪公まで狂ってしまわれたのか・・・!家臣達は思いもよらない事態に青くなり始めます。お固い道雪公が日々屋敷にこもって酒宴を開いているという噂は間もなく宗麟の耳にも届きます。宗麟もこの噂に我が耳を疑います。ですが気になるのは忠臣の乱心でなく、集められた美女達との宴会模様・・・。

どーっしても気になった宗麟、ちょっとわくわくしつつも立花家を訪れます。入口を潜り通された先には並べひしめいた美女達がお館様も早くどうぞと手を振って

道雪「おいでになりましたか」

いる訳もなくそこにいたのは道雪ただ一人!美女との宴会は宗麟をおびき寄せるものだったのです!まさかこんな作戦だとは宗麟も思わなかった。さすが名将、この神算鬼謀には宗麟もびっくり!(ギャグみたい)

その後宗麟は道雪にこってりと絞られ、再び政治の場に戻っていったのです・・・。皆さんも美女云々のトラップには気をつけましょうね!

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一方その頃

はてさて南九州での騒乱の最中、北九州でも色々な事が起こっています。島津家と肝付家の騒乱の最中、北の大友家ではある意味とっても大変な事になっていました。

主君大友宗麟が酒色にふけり、毎日美女をはべらして宴会三昧の酒池肉林にふけっていたのです。度重なる毛利家との戦いでメンタル面をごっそりと削られてしまったのか、この頃の大友宗麟は誰が見ても駄目大名の一言でした。酒色にふけるだけでなく突然「もみじが見たい・・・」と言いだしては失踪してあばら家の中で座り込んでいた・・・などという奇行もやらかしています。なまじ毛利家を退け北九州を統べる大名になりつつあるのに、当主がこれでは家臣もお困りです。何とか宗麟をまともに戻そうとしますが上手くいきません。皆ほとほと困り果てておりました。

そこで出てくるのがこの方、大友家屈指の名家老・立花道雪公です。

彼は若い頃に雷に打たれ半身不随の身になっていましたが、それ以前もそれからも大友家に忠義を尽くした名将です。名前一つで毛利もビビり、かの有名な武田信玄も「一度会ってみたい」と呟いていたほど。

他の家臣は道雪ならば宗麟を何とかしてくれるのではないかと期待します。さあ道雪公、一体どうするのでしょうか?

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木崎原決戦

一時撤退して態勢を整える伊東軍は白鳥山に登ります。しかしそこには既に義弘の手の者が回っていました。僧侶と農民ら300人が太鼓を打ち鳴らし、幟を立てて騒ぎ出した。これを伏兵と慌てた伊東軍に義弘は別働隊を後方に回らせ一度自身も正面から突撃を試みるもこれには敗北。

しかしその後態勢を立て直すのは流石武勇の義弘、伊東軍の予想をはるかに超えた早さでした。そして後方からの攻撃に加え、伏せていた兵の攻撃。島津家お得意の戦法「釣り野伏せ」です。伊東軍は必死に撤退するも、丁度ここに援軍として現れた新納忠元の150騎らに悉く打倒されることとなります。

結果としては島津軍の勝利として終わるも、敵味方同様に被害は甚大でした。ここが織田信長の桶狭間の戦いとは違う所ですね。この戦いで伊東軍は幹部クラスの武士を多く失った事もあり、後々の伊東家の衰退につながっていったと言われています。対して島津側も8割近い兵を失い、付近の積み重なった兵士の遺体を片付けるのに四カ月もの時間を朗したとか・・・。この時、義弘は近辺に地蔵塔を立てさせ、敵味方関係なく戦死者の弔いをしたと言われています。それほどでに激しい戦いだったのでしょう。

これにより伊東家は衰退していき、肝付家より早く崩壊を迎えます。そして肝付家もまた島津家に敗退を続け降伏。島津家は南九州に名だたる大名になっていくのです。

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夢のお告げと膝突栗毛

さて今回は恒例のちょっとした逸話です。木崎原の戦いの前、島津義弘は変な夢を見ました。自分の乗っていた馬が足を折る、というものでした。夢の意味を僧に問いかけると、それは次の合戦で勝つ吉兆だと言われました。

馬が足を折ると乗り手は歩く事になる。歩く事、即ち徒歩。「徒歩(かち)」という意味だそうな。そして夢のお告げが当たったのかは知らないがこの戦いは驚くほどの劣勢を島津が覆していく事になります。しかしその戦いの中、義弘は伊東軍の武士と一騎打ちをする事になりました。

その最中、相手の槍が義弘を捕らえました。しかしその時!義弘の乗っていた馬が空気を読んで足を折って座り込んだので義弘は窮地を脱し、見事一騎打ちにも勝利する事が出来ました。(諸説あるので、相手に槍が届かなかったので馬が足を折ったなど色々あります)

馬でも空気読めるのに黒田官兵衛ェ

義弘は自分の危機を救ってくれた子の馬を「膝突栗毛」と名付けてとても大切にしていたそうです。義弘の生涯52回の戦いの内20回余りをこの愛馬と共にしたそうな。大切にされた膝突栗毛は86歳まで生きて今も鹿児島県にその墓が残されています。

そしてこの膝突栗毛は雌だったそうで。薩摩の女子は馬まで強い。そんな島津義弘の愛馬のお話です。

池島川での一騎打ち

3000人の兵を率いて島津義弘の城を襲った伊東兵。二手に分かれ一方は兵が50人しかいない義弘の妻子が籠る加久藤城を狙うも、夜の闇になれていなかったのかご自慢の青年部隊が若すぎて不慣れだったのかはたまた事前情報が良く伝わって無かったのか、間違えて別の屋敷を攻撃。手痛い反撃を食らった上に無駄な時間を浪費、挙げ句に断崖すぎて上手く進めない間に弓矢鉄砲(があったかどうかは知らないが)で会釈をされて被害甚大になって敗走。頼りの相良兵は義弘の立ててあった旗に敵援軍が来たと勘違いして帰ってしまった。こんなグダグダな戦いをしつつ、別働隊大将の伊東祐信は池島川まで下がって休息を取っていました。

ここで兵の多さが災いしたのかどうかは知らないが、油断と蒸し暑さで川で水浴びをする者達が沢山いたと言われています。さてそれを予め放っておいた斥候から聞いた義弘はすぐさま出陣。自ら斬り込んでいって沢山の武士を討ち取りました。ここで大将の祐信は義弘に一騎打ちを申し込みますが、今一歩と言う所で義弘の馬が槍の穂先を交わして討ち取りそこね、逆に敗北してしまいました。この一騎打ちの相手は柚木崎正家と言う説もあります。

さて義弘はここで一度引き、ほうほうの体になった別動隊は本体と合流して決戦へと向かいます。

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加久藤城攻防戦!

島津義弘が家臣により起こされたのは加久藤方面の夜空が炎で赤く染まっている時だった。伊東方による放火と、挑発行動です。ですがすでに間者を伊東領内に送り込んでこの行動を知っていた義弘の行動は落ち着いたものでした。戦の勝敗は戦う前から決まっているとは良く言った物です。

義弘は冷静に狼煙で急を知らせると兵60人を加久藤への救援に出し、40人を白鳥山野間口、50人を本拠地の古溝に伏兵として潜ませます。そして有川貞真に城を任せ、自身も130人の兵を率いて討って出ます。

さてその頃加久藤城へ伊東祐信は攻撃を開始していましたが・・・夜の暗さで間違って城ではなく、樺山浄慶の屋敷を攻撃してしまいました。ですが浄慶ら父子3名は大量の将兵がいるように見せかけながら伊東兵を攻撃、奮戦するも討ち取られてしまいます。がここで要らない労力と時間を割いた上に負傷をさせられた伊東兵。更に進むも狭い道を進んだ上に登り口は断崖で上手く進めず、弓矢や投石に苦しめられます。ここで加久藤城を守る川上忠智が討って出てきた上に、援軍に駆けつけられて祐信は退却を呼びなくされただけでなく、伊東軍の名だたる武将を討ち取られてしまいました。

伊東軍は相良軍の援軍を待って盛り返そうとしますが、事前に義弘が立てさせていた大量の幟旗を見た相良兵は島津の大量の援軍が来ていると思いこみそのまま撤退していったようです。

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