龍造寺四天王の其其の最期の事

 

さて今回は五人そろって四天王でおなじみ、龍造寺四天王の各々の最期について明記していきましょう。

【龍造寺四天王の筆頭・成松信雄】

沖田畷の戦いでは主君・隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる。

【百人にも勝る武・百武賢兼】

龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる。沖田畷の戦いでは主君・隆信を守り、勇戦の果てに討死。

【鍋島家より直参・江里口信常】

沖田畷で主君・隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久の太腿に刀傷を刻むも討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称され、一族の者がいれば召し抱えたいとまで言わしめた。

【名門千葉氏の出・円城寺信胤】

沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦。その後討死。

【遥々京か来た・木下昌直】

隆信の戦死を知り、山の手を攻めていた隆信の嫡男・政家、隆信の義弟・直茂の軍の殿を務めた。その際に討死したとも言われるし、逃げ延びたとも言われており生死が定かではない。

 

見ればわかるように、その全てが壮絶な討死をしています。龍造寺隆信は最期の非道さが目立ちますが、このように主の為に奮戦する部下がいたという事は、やはり優れていた大名だったという事なのでしょう。特に歴史上の人物は、ある一面だけ見て評価を下さないように注意したいものです。

 

 

 

龍造寺「四」天王

さて龍造寺家は衰退していきますが・・・前回の記事を見て違和感を覚えた方はいるでしょうか?

今回は龍造寺四天王の五人について少し説明をしましょう。この歴史ファンの中では常識とも言われている龍造寺四天王の五人は、以下の人物となっています。

成松信勝 江里口信常 百武賢兼 円城寺信胤 木下昌直

「五人そろって我らが龍造寺四天王!」パーン!

えー何度見ても五人ですが、これにはちゃんと理由があります。

龍造寺四天王は、おそらく公では日本最古に四天王と呼ばれた人物達です。ですがこの五人、史料によって人物が違うのです。そのため、最終的に龍造寺四天王は五人、となったのであります。因みに史料によって違うのは円城寺信胤と木下昌直の二人で、もしかしたらこの二人の内どちらかが補欠という事も・・・他の三人は四天王として確立しています。

因みに五人に共通する項目としては全員が武勇に優れており、主君龍造寺隆信が討ち取られた沖田畷の戦いにおいて全員が壮絶な討死を遂げています。(但し木下昌直のみ討死説のほかに生存説がある)

この五人の壮絶なる最後はまた別でご説明しましょう。しかし何度見ても四天王なのに五人って不思議ですよね。

やっぱり四天王と言ったら六人が定番ですものね!

有馬家援軍要請での裏話

さて島津家は有馬家への援軍に島津家久を派遣しますが、この時島津家久を派遣するに至った経緯の逸話があります。

有馬家へ援軍を出す事を決定するも、どのようにするか決めかねている島津義久が相談に呼んだのは島津では鬼武蔵(まともな方)の呼び名が高い、新納忠元でした。送れる兵は寡兵、その場合の大将は島津義弘か島津家久。この二人のどちらがいいか問いかけた主に、忠元は即座に回答。

「義弘様は「耳臆病、目かいがいしい大将」。家久様は「耳かいがしく目臆病な大将」。今回送られるのは家久様にすべきです」

何だか意味不明な言葉ですが、忠元の言葉を受けた義久は総大将に家久を派遣しました。が、これが面白くないのが島津義弘、兄の自分の何が劣っているのかと忠元に直訴。しかしこれに忠元歯に衣きせず、

「逆恨みも大概にして下さい。私は私情を交えずお家の為を思って言ったまで」

この物言いに義弘も何も言えずに黙ったそうです。

おそらく忠元の言い方からすると耳を情報、目を実際の戦場、臆病を慎重、かいがいしいを積極ととり、

義弘は事前情報より戦場での直感を重視した天才肌の指揮官

家久は事前の情報重視し、戦場では慎重な采配を選ぶ指揮官

と言ったところでしょうか。さてこの鬼武蔵(まともな方)の采配やいかに?

龍造寺隆信、もう一人の娘お安の方3

隆信に利用され、夫を殺されたお安の方。彼女は自害しようと試みるも、果たせなかったそうです。その後、お安の方は松浦党の波多氏へ嫁ぐ事になりました。お安の方はこの頃から秀の前と呼ばれるようになったそうです。ですが波多氏には子がおらず、隆信の孫を養子に迎え入れる事になりました。またもやお安の方は隆信によって利用されたのでしょう。

さて、次は時の流れが大分進み、秀吉が九州征伐に訪れた後の事になります。この時波多家は遅参を秀吉に咎められ、あわや改易という事になりかけるも鍋島直茂のとりなしによって危機を逃れました。ですがその後、秀吉の朝鮮出兵の際にも遅参や軍令違反を犯して波多家は秀吉の不興を買う事になります。

その一方で、不運にもその美貌からお安は秀吉に目をつけられていました。秀吉の前に出向くように申しつけられるも、お安は秀吉への不服従の意思示しの為にわざとその前で懐剣を落として見せました。ですが逆にこれは秀吉の怒りを買い、波多家は取り潰し、夫は常陸に流される事になってしまいました。

その後お安の方は佐賀へ返り、出家して妙安尼と名乗って余生を過ごしたようです。時代に振り回された女性の、悲しい最期ですね。

しかし懐に懐剣だのは明智光秀の娘の玉などもやっているのですが、どうしてお安の方だけ怒りを買ったのか・・・まあ秀吉の機嫌一つだったのでしょうが。

 

龍造寺隆信、もう一人の娘お安の方2

さて色々あったもののお安の方は無事美しく成長し、蓮池城城主の小田鎮光の元に嫁ぎました。しかしこの鎮光の父である小田政光は、嘗て援軍要請を出すも隆信によって見殺しにされたという過去があります。その後、息子の鎮光は家臣の手によって筑後に落ち伸び、後に小田家を再興しました。

しかし隆信、その過去が気にかかったのか要地である蓮池城を隆信の弟である龍造寺長信に渡し、多久にある梶峰城へと移るように申し渡しました。鎮光はお安の方とともに城を離れるも、父親を見殺しにされて父祖伝来の地を奪われた事に激しく怒りを感じていました。後、大友家による龍造寺家包囲網戦の際に鎮光は大友家に加担して隆信を攻めています。

ですが大友家は敗退、鎮光はお安の方を隆信の元へ戻して筑後へと再び落ち伸びていきました。お安の方の不幸はここからです。

お安は義父隆信に鎮光に詫びに来れば裏切りを許すという書状を書かせました。この手紙を受け取った鎮光は佐賀の地へと訪れましたが、そこに待っていたのは隆信でもお安でもなく、武装した龍造寺軍。お安の手紙は隆信が書かせた偽りの手紙であり、鎮光もまた騙し討ちにされたのです。お安は隆信に策略の道具として使われたのでした。

龍造寺隆信、もう一人の娘お安の方1

前前回、龍造寺隆信の娘・玉鶴姫について説明しました。実父に夫を騙し討ちにされ、夫の家と命を共にした悲運の娘です。ですが龍造寺隆信にはもう一人悲運の人生を遂げた娘がいます。まだいるのか。

その娘の名はお安の方、秀の前とも呼ばれますが、この女性の生涯を語るのは大分前の事から始めなければなりません。

それは龍造寺隆信が龍造寺本家を継いだ頃の話。元々は本家筋の龍造寺胤栄がその後を継いでいました。胤栄は25歳の早さで病死してしまい、その未亡人を隆信と再婚させて龍造寺家は存続がなりました。ですがこの夫人は隆信と不仲だった事は、以前の記事でも書きましたね。

これを憂いたのが龍造寺家重臣・小川信安です。彼は夫人に面会して、御家の為に隆信と親しむように忠告しました。所でこの夫人、胤栄との間に産まれた娘を溺愛していました。夫を早くに亡くした故かもしれません。信安の必死の説得にも夫人は耳を貸しません。そこで信安、何を考えたか姫様を抱かせて欲しいと懇願、幼い姫を抱きかかえると・・・

「今現在龍造寺家はご夫人が隆信様にお親しみならないために二つに割れている状態です。今大友家が攻め込んでくればこの姫様も豊後の地に命を落とし、屍を野に晒す事になるでしょう・・・・・・ならば某、その前にこの手で姫様を介錯仕ります!!」

そう言って幼い姫の喉元に短刀を突き付け、夫人を脅し説得しました。この時の人質姫君が後のお安の方なのです。

蒲池鎮並の討伐について

娘婿であり、恩ある蒲池家を攻め滅ぼそうとした事は龍造寺家にとって深い遺恨を残す事になりました。この当時ですらこの事件は非常に後味の悪い事件であり、その後の豪族達の離反を産んでしまいました。龍造寺隆信に忠誠を誓う、龍造寺四天王の一人である百武賢兼ですらこの戦への出陣を拒否したと言われています。

この百武賢兼、「その武勇は百人の武勇にも勝る」といわれて百武という名に改名した、龍造寺四天王の中でも武勇や忠義に優れていた人物でした。それだけに当時の隆信の乱心には頭を悩ませていましたが、そこへもって大恩ある蒲池家の当主であった鎮並への騙し打ちを隆信が画策した事は驚きであり、その信義を欠いた行動に賢兼は

「此度の蒲池鎮並ご征伐、龍造寺家の御家が滅びる兆しに違いない」

と号泣し、最後まで出陣要請を拒否し通して出陣しないままだったとあります。

さてこの武勇に優れた百武賢兼、その妻・圓久尼も夫と同様に武勇に優れた女傑でありました。彼女の勇ましい逸話はまたその時にご紹介しますが、この時出陣を嫌がる夫に何と彼女は鎧具足を投げつけて出陣しろと急かした様子。恐らく夫が後々隆信の不興を買うのではと心配した行動かと思いますが、こりゃすごい。

さてエスカレートする隆信の行動は、次なる問題を引き起こしてしまいます。

甲斐宗運・もう一つの哀しい最期

九州・阿蘇家の忠臣甲斐宗運。島津家との戦で盟友・相良義陽を失うも、その後も嘆き続ける事無く主家への忠義を果たして島津家との外交を担当するなどして主家・阿蘇家を守るために尽くしました。この宗運、政治能力だけでなく生涯60の合戦で不敗という軍事能力にもたけた人物です。

宗運は最後まで阿蘇家へ尽くしながら病死しますが、一説にはこの最期・毒殺であったという説もあります。

その犯人は宗運の孫娘である、嫡男甲斐親英の娘。ですがその首謀者はその母親でありm親英の妻であったと言われています。

主家の為に忠義を尽くした宗運。ですがその忠義は深く、親類縁者でさえ主家の為なら手にかけて来ました。日向の伊東氏に通じようとした次男・三男・四男までもを処断した父に恐怖を覚えたのか、嫡男・親英は父を排除しようとします。これにより親英までも処断されそうになりますが、家臣のとりなしで助命されました。ですが親英の妻はかつて、実父を宗運に伊東氏への内通を疑われただけで殺されてしまった過去があります。実父をいわれなき罪で殺され、夫まで殺されそうになった妻は舅の毒殺を娘にさせる事になるのですが、ここにも理由があります。

この妻は実父を殺害された際宗運によって

「父を殺されても怨みに思わず、けして復讐しないことを祖母山大明神にかけて誓約する」

という誓紙を書かされていたのでした。もちろん宗運の身を守るためのものです。阿蘇家は宮司の家系、その家臣であるためこの誓約は破れなかったのでしょう。ですが実父を殺された上に夫まで殺されそうになり、溜まりかねて娘に祖父を毒殺させたのかもしれません。

忠義の人も行き過ぎるとこのような事になる。そんな甲斐宗運最後の逸話です。

 

伊東義祐のその後

さて大友家の日向侵攻は失敗に終わるどころか、目を疑う程に散々な結果に終わりました。ここで少し思い出して貰いたいのが伊東義祐、日向の地を島津に追われ、大友家を頼ってきていた人物ですね。彼のその後がどうなったのかを少しご紹介しておきましょう。

日向の地を奪われた伊東義祐は大友宗麟を頼って豊後まで落ち伸びました。この時、大友宗麟により国東部に屋敷を与えられるなどして大友家内で丁重な扱いをされていたようです。その後、宗麟は伊東義祐の日向奪還のため(と自分の野望の為)耳川の戦いを起こします。

ですが、耳川の戦いは散々な結果に終わります。負け戦だったばかりか、大友家中の有力家臣も何名も失う程の被害が出ました。これにより、伊東義祐への扱いは変わっていきます。この時の大友家や領内の人から見れば、大友家を島津家との戦いに巻き込んだ元凶のように思っていたのでしょう。そんなある日に伊東家の屋敷の前に落首の書かれた札が立っていました。

『のみしらみ 鼠となりて三位殿 田原の下を這い回りけり』

三位殿とは伊東義祐の事です。この落首に誇りを傷つけられた伊東義祐はその後、僅かな家臣と共に豊後の地を去り伊予へと渡ります。その後は各地を放浪し、晩年を流浪の元過ごしました。彼は死ぬまで再び日向の地を踏む事はなかったそうです。

もちろん大友宗麟もキリシタン王国の健立という野心あって日向侵攻をしたのですが、当時国東や臼杵、宇佐辺りは仏教が盛んで反キリシタンが多かったのもあって伊東義祐へ半ば逆恨みでこのような振る舞いに出たのでしょうね。そんな伊東義祐の晩年と、耳川のその後でした。

鍋島直茂の父

さて今回は少し前から名前が出て来ている、鍋島家のお話です。鍋島家は龍造寺が少弐家の家臣だった頃に、龍造寺隆信の祖父(曾祖父)の龍造寺家兼の窮地を、これまた鍋島直茂の祖父である鍋島清久が救った事から出てきた主従関係です。この時清久に感謝した家兼は、清久の息子である鍋島清房に自分の孫娘を嫁がせて一門に迎え入れています。その為、龍造寺隆信と鍋島直茂は主従関係でありながら、従兄弟関係にもあるのです。

さて、今回はその鍋島直茂の父親である鍋島清房の少し不思議な出生のお話です。

ある年、直茂の祖父・清久が本庄の社に年越しの参籠をしました。その社には一人の天が参籠をしており、尼に素性を尋ねた所、「生まれた土地も父母も存知上げず、一生行脚をしている者です」と答えました。清久は天の身を憐れんで連れ帰って置いておいたのですが、この尼は良く働き気のつく女性でした。

清久はこの尼を気に入り、夫婦となりました。その後、二人の間に生まれたのが鍋島直茂の父・清房です。

ですがこの尼、清房が参歳になると暇乞いをして屋敷を後にしました。清久はこの尼を引きとめようと後を追いかけましたが、どうしてもその後に追い付けず、遂に尼は筑後川を越えていってしまい行方知れずとなってしまったそうです。この尼の正体が一体何者であったかは分からずじまいとなったのでした。

鍋島直茂の父・清房の母の不思議な逸話です。