和議の酒樽

さて色々あって(盛大な端折り)大友家と龍造寺家の和議が成立しました。その際に大友家立花道雪公より龍造寺家に贈られた酒樽にまつわる逸話を今回はご紹介します。

大友家と龍造寺家の和議が成立した時、龍造寺家当主龍造寺隆信のもとに大友家の名将・立花道雪より祝いの贈り物が届きました。この時使者は道雪からの太刀、馬、そして酒樽を祝いの品として隆信に差し出しました。これに隆信は大喜びして、酒樽から杯に酒を酌んで飲もうとしました。これを見た家臣は大慌て。

「失礼ながらその酒樽は危険にござりまする!もしや毒が盛られておるやもしれませぬぞ!」

この家臣の言葉に隆信は笑って

「立花道雪は近年まれにみる名将である。その者から贈られた酒にどうして毒など仕込まれていようか」

と言って立て続けに三杯もの酒を飲み干しました。そして

「道雪公より贈られた酒はまことに美酒であった。道雪殿にもぜひ、肥前の酒を飲んで頂きたい」

と使者に今度は自ら用意した酒樽を持たせ、丁重に送り返しました。この使者が帰ってきて報告を受けた道雪もまた笑って、

「豪勇なる大将である。誠に敵として難儀なものだ」

と周囲が止めるのも構わずに此方も酒を器に三杯飲みほしました。

九州大友家、龍造寺家における和平の場の、豪快な逸話です。

面浮立

今回は90近い老練でお家のピンチをひっくり返した龍造寺家兼と、とある踊りのお話です。

それは龍造寺家と主家・少弐家がまだ友好な関係であった1530年。大内家が少弐家の本国である筑前に侵攻を開始しました。本国筑前を奪われた少弐家、決死の思いで奪還の望むもたちまち劣勢のピンチ!

この時竜造寺家兼もまた戦に臨み、大内軍の朝日頼貫を討ちとってはいたのですが流石に大内軍の大軍相手では成すすべもありません。もはやこれまでかと家兼も覚悟を決めたその時、突如奴らが現れた!

「クマママママママ――――――!!!!!!!!」

なんだこりゃ。

突如現れた赤熊(ヤクの毛を染めた兜・母衣飾り)に漆黒の鬼面をつけた謎部隊が大内軍に襲いかかったのです。勝ち戦に気が緩んでいた大内軍でしたが、突如現れた異常な軍団に大混乱、見る間にその陣を崩されていきます。まぁ仕方ないわな・・・

その隙を逃さず陣を立て直しこの異様な軍団の勢いに乗って家兼は窮地を脱し、大内家を退けました。安堵していいのか混乱していいのか分からない家兼の前に現れたのは赤熊軍団の長らしき男。その男が面を取って曰く、

「佐賀郡鍋島家の鍋島清久と申すものです。以前より良将たる竜造寺殿にお仕えしたく思っておりました。どうぞ家臣の端にお加えいただけませんか」

これに喜んだ家兼、鍋島家を家臣に加えるだけでなく清久の二男・清房に孫娘を嫁がせ、鍋島家は以後龍造寺家の重臣となっていきます。この時鍋島の者達は戦勝祝いに赤熊の装束で練り歩いた所。佐賀の無形文化財である面浮立が生まれたそうです。

この鍋島家は以後龍造寺に深くかかわって来ますので、覚えておくと面白いですよ。

馬場家家臣・薬王子隼人

さて前回、龍造寺家の少弐家、馬場家による誅殺事件とその顛末を説明しましたが、その中であったもう一つの逸話をご紹介しましょう。

龍造寺家の一族は同じく少弐家家臣による馬場頼周により誅殺――謀殺される事になりました。その馬場頼周の家臣である薬王子隼人のお話なのですが、主である馬場頼周の死に際に隼人は遠方に行っており、帰る前に主は龍造寺家の報復によりその命を亡くしておりました。主に死に際に間に合わなかった隼人はそのまま遠方で剃髪し、高野山に入って僧になってその死を弔う事にしました。

しかし実際には秘密裏に肥前に帰国。主の敵討ちの為に潜伏していました。

所がこの隼人の企みは露見してしまい、捕らわれた隼人は龍造寺家兼の前に引き出されてしまいます。ですがこの企みに関して家兼は「亡き主に忠義を尽くすのは天晴れである」と称賛して、隼人に自身に仕えてはくれないかと持ちかけます。ですが隼人の言い分はこうでした。

「一度は有り難くお仕えしても、仇討の心が無くなる事はないでしょう」

隼人はこの誘いを断ると、主の後を追うように切腹をしました。家兼はその振る舞いと潔さにますます感心し、隼人の幼い息子を召し出して食禄を与えたと言います。

薬王子隼人のみならず、龍造寺家兼の人柄も感じさせられる逸話です。この人がもっと長生きして龍造寺家に関わってくればまたその最後も違っていたのですが・・・仕方ないですね、この当時この人90歳近いですし

人論の所業にあらず

さて龍造寺家の大友家包囲網参加の話の前に、少し龍造寺家の話をしていきましょうか。優秀すぎた故にか主家・少弐家に仇成すものとして一族を誅殺されてしまった龍造寺家。ですがその裏には色々な事情がかみ合っていたようです。

少弐家が龍造寺家を誅殺したのには、発言力の強すぎた家をどうにかしたかったのか、龍造寺家が実は少弐家の敵と通じていたとか、など色々な事情があります。ですがこれらは龍造寺家と同じく少弐家の家臣であった馬場頼周が龍造寺家を邪魔に思っていた、というものもあるそうです。それにより甘言を受けた少弐家が龍造寺家を誅殺してしまったという・・・。

主家の命により龍造寺家の居城を包囲して開城を呼び掛けた馬場頼周。彼は開城後、孫を謝罪の使者として、その後は筑後に退くようにと勧告しました。龍造寺家兼はこの条件を受け、一族は分かれて筑後・筑前へと退きます。

が、少弐家はここに攻撃を仕掛け、家兼はなんとか筑後へ逃れたものの、油断していた龍造寺家の一族はことごとく討ち殺されました。その後、龍造寺家の一族の首は城門に埋められて往来の人々に踏ませられるという辱めを受けました。

その後、再び戻ってきた竜造寺は馬場頼周親子を我が子らの恨みと討ち果たします。この時家臣らが彼らの首を同じように城門の前に埋める事を提案するも、家兼は「人論の所業にあらず」とこれを断り、きちんと供養を行ったそうです。

龍造寺家兼という人物の人柄がうかがえる話ですね。

道雪公の名の謂れ

さて前回から出て来ている大友家の名称にして老将、立花道雪公について今回は少しお話しましょう。

彼は若い頃に雷に打たれ下半身不随になりましたが、その時に雷を切ったと言われておりその刀の名はそこから取って「雷切」と呼ばれています。そして戦上手でも有名であり、毛利軍との戦いの中で矢に「戸次道雪公参らせ候」と書いて敵陣に打ち込むと、「あの道雪が来た・・・!」と驚きふためき士気がだだ下がりになるなど、その忠義からネームバリューまで広く知れ渡っている名将です。

さてそんな道雪公、立花道雪の名が通っていますがこれは主君大友宗麟と共に出家し、立花城を受け持った時の名で実際は「戸次鑑連」という名前です。歴史好きの方にはベッキーの愛称でも親しまれているようですね。

さてその立花道雪の出家名、正しくは「麟伯軒道雪」と言います。麟の字は主君大友宗麟から一時拝謁したものですが、道雪にはまた違う意味があります。

その字のごとく道に積もった雪のように、その姿消える時までそこから退く事はない、自らの命が消え尽きる瞬間まで主君に忠義を尽くす、という誓いの込められた名前です。

時代は戦国、主君は日替わり弁当の世の中で清廉潔白に生きた立花道雪は、数多くの人々に慕われていた名君だったそうです。

夢のお告げと膝突栗毛

さて今回は恒例のちょっとした逸話です。木崎原の戦いの前、島津義弘は変な夢を見ました。自分の乗っていた馬が足を折る、というものでした。夢の意味を僧に問いかけると、それは次の合戦で勝つ吉兆だと言われました。

馬が足を折ると乗り手は歩く事になる。歩く事、即ち徒歩。「徒歩(かち)」という意味だそうな。そして夢のお告げが当たったのかは知らないがこの戦いは驚くほどの劣勢を島津が覆していく事になります。しかしその戦いの中、義弘は伊東軍の武士と一騎打ちをする事になりました。

その最中、相手の槍が義弘を捕らえました。しかしその時!義弘の乗っていた馬が空気を読んで足を折って座り込んだので義弘は窮地を脱し、見事一騎打ちにも勝利する事が出来ました。(諸説あるので、相手に槍が届かなかったので馬が足を折ったなど色々あります)

馬でも空気読めるのに黒田官兵衛ェ

義弘は自分の危機を救ってくれた子の馬を「膝突栗毛」と名付けてとても大切にしていたそうです。義弘の生涯52回の戦いの内20回余りをこの愛馬と共にしたそうな。大切にされた膝突栗毛は86歳まで生きて今も鹿児島県にその墓が残されています。

そしてこの膝突栗毛は雌だったそうで。薩摩の女子は馬まで強い。そんな島津義弘の愛馬のお話です。

廻城攻防線における少し悲しいお話3

さて、島津家と肝付・伊東家の戦いの最中島津家次男である忠将が討死。家中のみならず父、日新斎の嘆き悲しみは計り知れなかった。しかしその悲しみが大きすぎたのか、ここで余計な不幸を産んでしまう。

「なぜ早急に忠将を助けに行かなかったのか!」

廻城合戦には総大将であった貴久を始め、尚久やの息子の義久など島津家の主な武将達は皆参戦していたのに、忠将を亡くした悲しみと苛立ちを全て尚久にぶつけてしまう。日新斎の言い分は尚久の敵前逃亡とのことだったが、尚久の救援が遅れたのにもちゃんとした理由と言い分があった。尚久の城の南方にあった忠将の陣とは間に深い谷があり、そのせいで進軍が遅れてしまったのである。決して怖気づいたのでもなければ、進軍しなかった訳でもない。

しかし兄を失った悲しみと、父親に敵前逃亡したと罵られた事に心に大きな傷を負ったのか、尚久はこの事を深く気に病み、翌年に病にかかり32歳という若さで急死してしまう。尚久の家臣も主の急死に涙し、殉死者まで出た。ここまで戦の被害が大きくなるとは一体誰が予測していたであろうか。

その後1568年。島津日新斎は長寿を全うする。77歳まで生きたので、当時としては長生きをした方であるだろう。だが忠将、尚久の息子二人に先立たれた悲しみは非常に深かったと言われている。

廻城攻防戦における、少し寂しく悲しい話である。

廻城攻防線における少し悲しい話2

1561年。島津家と友好を築いていた肝付家との争いが始まる。事の発端は酒の席で酔った島津家の家臣が肝付家の家紋にある鶴の吸い物が食いたいと言い出した事だが、実際にはそれ以前からお互いに鬱憤が溜まっていたのかもしれません。肝付家の友好国である伊東家も加わり、そこにまた・・・と事態は南九州を巻き込んだ戦乱になります。

父・島津日新斎もなんとか昔のような友好を築こうと奔走したがどうする事も出来ず、戦は始まります。この時、次男忠将は忠将は竹原山にて町田久倍ら率いる味方が肝付勢の急襲されたとの報を受け、これを救援するために馬立塁から出陣。この時少勢での救援を心配したのか、家臣達は忠将を諌め、本陣から動かないように進言したが忠将はこれを聞き入れずに出陣。その結果山中に付してあった敵兵の挟撃を受ける事になりました。

後続の味方が駆け付けた時には忠将率いる主従数十人はことごとく討ち死にしていたという。この後、貴久は何とか肝付家を退けるが島津家は敗北してしまいます。

島津忠将・享年42歳。島津家の三州統一が順調に進んでいた最中の、早すぎる死に家中の誰もが衝撃を受け、涙したと言われています。特に忠将に大きな信頼と期待を寄せていた父・日新斎の嘆き悲しみは、計り知れないものであったと思われる。が、ここからが三男・尚久の不幸の始まり。

 

鉄砲伝来

さて母・常盤夫人により帝王学を仕込まれ、厳しく育てられた島津日新斎は外交、戦略を駆使して島津家を纏めていくのですが、その陰で歴史は動き続けます。

1543年。それはやってきました。何だかお分かりでしょうか?

そうです、鉄砲の伝来ですね。以(1)後(5)予(4)算(3)が増えた鉄砲伝来、などの語呂合わせで有名です。種子島に漂着したポルトガル人が持っていた鉄砲を、種子島時尭が二丁買い取りました。もちろん一方は分解して仕組みを調べる為のものです。そして鉄砲といえば種子島、と言われるまでになったんですね。これぞ先見の明です。

この鉄砲は島津家にも伝わり、実用化されていきます。鉄砲と言えば織田信長の長篠の戦いが有名ですが、1554年頃に薩摩国内で起こった島津家と島津家に対抗する合戦で、既に鉄砲は撃ち合いに使用されていたようですので、島津家は戦国時代の大名の中で一番早く鉄砲を合戦に組み込んだ大名家のようです。

そしてちょっとした補足ですが、この時尭は島津家と深い因縁?がある人物です。実は島津家の娘を嫁に貰っていたのですが、その一方で島津家と敵対している家の姫とも関係を持った揚句子供を授かって・・・怒った奥さんは家に帰ってしまいます。まぁ、仕方ないですね。

そんな実生活では少しケチがついてしまった、種子島時尭でした。

 

島津日新斎・日新柱

さてあまりの悪ガキっぷりに坊さんに薙刀振り回して追いかけ回された島津日新斎。寧ろそこまでされるほどの何をやったんだと問い詰めたいが、そんな日新斎の教育に少しふれる事が出来るお話です。

前回の話を見れば分かるようにとっても悪ガキだった日新斎。だが結果的に何だかわからないけど褒められた前回とは違い、今回はしっかり捕獲されてお仕置きを受けました。それは柱に縛り付けられて説教を受けるというもので・・・うん、本当にそこまでされるほど何をしたんだという。これはお寺の教育が激しかったのか、日新斎の悪ガキっぷりが凄かったのか判断が難しい所でもありますね。

因みにこの柱、今もちゃんと現存しています。一時寺とともに焼失しましたが、お寺の再建された時に日新斎が縛られた位置にあった柱を日新柱と名付ける事にしたそうです。島津の歴代藩主はこの柱に接して育ちつつ、戒めとしたと言われています。現代でも伊作小学校の教育の戒めとして飾られており、町指定の文化財となっています。

因みに息子が柱に縛り付けられて説教を受けたと聞いた常盤夫人は「息子は良い師をえた」と涙を流して喜んだと言われていますので、もしかして家にいるころから母親の手に負えない悪ガキだったのかもしれませんね。

皆さんはお母さんやお父さんの手を焼かせて柱に縛り付けられたり、薙刀を振り回されて追いかけ回されたりしないようにしようね!