粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)後

いかがでしょうか。読んでみて皆さんはどう思いましたか?私は

長いよ!!

の一言でしたね。(苦笑

いや、いい事を言っているのはわかるのですが、何とも同じことの繰り返しというかそれが冗長というかなんなのか。貰った隆景も隆景で読んでいて何を思ったのか激しく気になりますね。良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ、と言いたくなってきてしまいます。出した相手が父親であること、内容が自分の過去語りが入っていて(自分の教訓からと言ったらそれまでですが)くどくどしいということ、結局のところお前は我慢しなさいよという説教くさい事を考えると、隆景も面倒くさかったのではと邪推してしまいます。(苦笑

しかし話が長い、同じことの繰り返し、説教、ということを踏まえると、本当に息子を心配していて、注意したかったのではとも感じられます。もしかしたら謀神・毛利元就は心配性であったのかもしれませんね。大事なことだから二度言った、のでしょうか?(まぁ二度どころじゃない気もしますが)

因みに「良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ」と書きましたが、この手紙実は本当に長いので前半部の重要な所だけ書き出したものです。

書き出してこれか、とは言わないで…

 

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)中

お次は文章を読みやすく、訳したものです。

又四郎(隆景)へ 元就より

児玉に聞いて大体のことは分かった。お前が言っていることはよく分かるよ。

今更言うようなことでもないし、前々から言ってることだけど、堪忍していれば物事は悪いようには絶対に進まない。だから我慢しなさい。

お父さんなんか井上の者達に、興元が亡くなってから40年間も、家中の皆がまるで主人に仕えるように井上一族の言いなりになっているのを我慢してきたんだ。

その悔しさは言うに堪えないと思ってほしい。

40年の間ずっと耐えてきたことは、今更言う必要もないだろう。

ただ、私も年を取り、このまま無念を晴らさずに死ぬのはなんとも我慢できないと思ったからこそ、この度の処罰を下したんだ。

でもね、どんな事も考えなしに適当にする事は絶対にしてはいけないよ。

第一、その家の主人が家臣を粛清することは手足を斬るような事であって、してはいけない事の中で一番悪いことなんだ。やってはいけない事としてこれよりひどいことはないぞ。

井上一族の事はああでもしないと家を保つことができなかったから、どうしても避けては通れない道だったからこそやったんだよ。

お前の言い分は、大体はわかっている。

でもお前に関して言えば親類や家臣の方達はいずれもお前によく従ってくれているじゃないか。

それに皆、他の家の者達とは比べ物にのないぐらいよく働くと聞いているよ。家臣に大切なのはそういうことなんだよ。

そういう事だから、些細な事でとむっとして腹ただしく言うのは絶対にしてはいけない。

皆の意見に合わない事や道理に適っていない事を言ってしまうような事は、一番避けなければならない事だ。

今までのところ、御家中の皆さんはお前を誉めていると聞いているよ。

お前を悪いようには少しも言っていないようなのだから、お前が万一家中の事で道理に反するような事を言ったりすることは

もってのほかだから、そういう間違ったことがないように見下した言い方をしないように、よくよく気をつけなさいね。

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)前

では今回から元就が家臣粛清に対して息子、隆景に送った文章を紹介していきます。まずは本文でご覧下さい。

 

又四へ もと就

又児蔵所へみつみつにて承る儀、其の申し聞かせ候ほどに承知候、

相かまへて々、いうやうの事候共、御かんにん候はては曲あるましく候々、

我々などは、井上之者共に、興元死去以来40年に及び、悉く皆彼の者共を主人に仕え候しかるをこらへ候、

その内の口惜しさなどは、いうばかりとおぼしめし候哉、

既40年の事候は間、長々敷かんにん、申すもおろかに候々、

唯今はや我々も年より候程、もし々かやうの無念を散らし候はで、いか躰にも罷り成し候しかばと存知候てこそ、此の時分存立たる事にて候へ、

およその事共に聊爾なる儀共仕べく事有るまじき候、

第一、其の家の主人内之者をうしない候事は、手足をきるにてこそ候へば、わるき事の最上にて候、よからぬ儀是に過ぎたる事にて候へ共、

此の家の事はかやうに仕候はては叶わぬことにて候程に、のがれぬ事にてこそ仕候へ、

およその事共にては候はず候、

そこもとの事は、御親類御被官中いつれも々ならいよく御入候にては

みな々馳走比類なき由承りおよび候の間、かんえう此の事にて候、

然る處少の事共気持ちたて共めされ候て、何かと仰せられ候はん事は、努々あるまじき候、

おかしけなる事共、仰しめされ候ては、ことの外めされさけたる事にてあるへく候、

唯今迄は御家中衆も其の方をばほめ申すやうにこそ聞きおよび候へ、

あしざまには聊かも申されぬように候の處、萬一おかしき事共仰しめされ候はば、

以て外に各曲無く見さけ申されるべく候の条、よくよく御心え候へく候々

 

粛清の件、息子隆景へ。(短いversion)

積年の恨みに加え、家中で専横、横領を繰り返す井上一派を粛清した毛利元就。彼はそのすぐ後に、小早川家の跡を継いだ三男・小早川隆景に対してこのような手紙を送っています。今回はその手紙の要所部分だけを、短くまとめて抜き出したものをご紹介します。

「その家の主人が家臣を殺す事は、手足を切るようなもので最悪の行為です。これ以上悪いことはないでしょう。一般的に家臣を殺すということは、その主人に器量がないために起こったことであり、器量のある主人は家臣を殺すような真似はしないものです。このことをよくよく、心得て置いてください。」

これが井上一派粛清に関してのことだということは隆景もは充分に知っていたでしょう。父・元就は自身の苦悩と自戒を篭めて、この手紙を息子に当てて書いたのです。折しもこの時、小早川家を継いだ隆景は家臣の統率がうまくいかず、粛清も視野に入れていたといいます。そんな息子を思って、「父親のようなことはしてくれるな、自分のようにはなるな」と手紙を書いたのかもしれませんね。

このような逸話を見る限りでは、何だか三男の隆景が一番元就に似ている気がします。嫡男、隆元は容姿も母親にのようですし、だったら間の元春と五龍は・・・うーん、吉川の血筋ですかね。

ともあれ次回は、「この手紙をさらに」詳しく見ていくことにしましょう。元就の手紙の冗長さが理解できるでしょう。

 

腹痛の妙薬?

さてこの流れで吉川元春の面白いというか、変わった逸話も一つご紹介しましょうか。吉川元春は一節には黒田官兵衛との会食後、無理をして鮭を食べて亡くなった、というのが通説ですが、それよりもっと昔の話。元春が体調を壊した時の話です。これには不思議な薬が出てきます。

ある時、元春は腹痛を覚えてそのまま病にかかってしましました。今でこそ場合に応じて色々な薬が用意されますが、この時代は特効薬というものはありません。

この時、元春はあるものを腹痛に効く薬として父親である毛利元就にないかと尋ねていたようです。

それはなんとカワウソ!現代日本では既に絶滅してしまっているカワウソですが、この時代にはそれなりに生息していたようです。しかしカワウソが腹痛の薬とは・・・

因みに元就の手元には肝心のカワウソがなく、元就は嫡男である隆元に

「元春が腹痛でカワウソを欲しがっていますがこちらにはありません。もし隆元が持っていたら元春に送ってあげてください」

と連絡し、隆元が

「少し古くなっていますがカワウソの塩漬けを持っています。すぐに元春に届けましょう」

となって元春にカワウソを送ったようです。その後、元春の病状は回復したというからカワウソは腹痛に効いたのでしょうか?しかしカワウソが薬とは・・・牛肉を薬食い、と言ったようなものなのでしょうかね・・・?

 

 

吉川元春と陶晴賢

さて吉川興経の話にも、吉川元春の舅になった熊谷信直が出てきましたね。婚姻政策により元春の味方になってくれたのです。そんな元春ですが、実は意外な人物とつながりがあります。実は元春は陶晴賢と義兄弟の契りを交わしているのです。今回はその義兄弟のいきさつについて解説していくことにしましょう。

さてそれは毛利父子が山口に来ていた時のことです。大内家家臣の相良武任が大内義隆に提案したのが始まりでした。

「義隆様、毛利元就は元々は尼子に仕えていました。毛利元就は優秀な人材で、稀有な人物です。なので再び元就が尼子になびかないようにしておいた方がよいでしょう。そこでご相談なのですが嫡子の隆元に関してですが、内藤興盛の娘なら義隆様に血筋も近いので養女に迎えて隆元と婚姻契約を結びましょう。そして次男の元春は元就と並び立つ良将の器だと評判です。ですのでこちらはの陶隆房(晴賢)と元春を義兄弟にしてしまいましょう。隆房も勇猛さでは西国一、あの二人に先陣を任せればかの蒙古の堅陣だとて大内家の敵ではございません!」

これを聞き入れた義隆は早速元就を呼んでこれを伝えると、元就もこの提案を大いに喜びました。要するに大内の毛利つなぎとめ政策の一環として元春と晴賢は義兄弟になったのです。なんともこれは・・・・義兄弟とはもっとロマンがあるものかと思っていましたが、現実的な理由があったのですね。

元春と晴賢、義兄弟にさせられる、という話でした。

今鎮西の暗殺・裏話

さて吉川家を乗っ取るためにと言うと聞こえは悪いですが、前当主であった吉川興経を謀略でもって打ち取ることに成功した毛利元就。

興経は武勇の誉れ高い武人ではあったものの、その性格には難が有り、日和見で動くことが多くあちらこちらと場合によって着く味方を決める人物でありました。その上譜代の家臣たちを冷遇し、自身の気に入った新参者たちを寵愛していたのでついには家臣からも見放され、元就の息子吉川元春を新当主に迎え入れられて強制的に隠居させられただけでなく、最期は元就の策謀の元戦国の世に散りました。

その最期は前回までに語ってきたと同じく、部下たちに裏切られ、騙し討ちで打ち取られてしまいました。裏切りを重ねてきた人物には、それ相応の最期しか待ってなかったというとどこか物悲しいものがあります。

これはその興経の最期の最後の話です。興経は打ち取られ、首を取られました。しかし興経が普段から可愛がっていた白い犬が飛び出してきて、主の首を咥えて逃げたのです。主の首を抱えて逃げた犬はその後、逃げおおせた先でその首の傍を離れず、果に餓死をして亡くなりました。今もその犬と、首塚が残っています。

裏切り続け、裏切られた吉川興経。彼にもまた、最期を共にしてくれる存在が確かにいたのです。

今鎮西の暗殺・後

それでも興経は簡単には諦めません。潰された刃の刀を振り回しながら寄せてくる数十人の敵を刀で殴り倒していきます。しかし多勢に無勢、後ろから腰を矢で射られてしまいました。

ここで明石という侍女が矢を抜こうとしたのを見た興経は「後ろに抜くんじゃない。前へ押し抜け」と命じました。 明石が矢をつかみ前へ押すと、矢先が腹を突き破ったので自ら鏃をつかみ前へ引き抜きました。なんか明石さんも十分に思い切りがいいと思うのは私だけでしょうか?

「お前はうちの家来どもより頼もしいな。お前のことはあの世でも忘れないぞ」

興経は明石をそう褒めると、またも戦い続けて天野隆重までたどり着きました。彼を組み伏せたものの周辺の討手に引き剥がされ、ついに首を挙げられました。 嫡男の千法師も殺され、藤原南家吉川氏はここに滅亡します。

一方、先に言った豊島内蔵丞も暗殺されるところを何とか毛利家より脱出。毛利の警戒線を突破して帰還したのだが、彼は主の最期には間に合いませんでした。豊島は腹を十文字に掻き切り、その場に介錯する者がいなかったので自ら喉を押し切って自害したといいます。

しかし壮絶な最後ですね。途中の発言といい、何だか中国の覇王・項羽を思い起こします。ともあれ吉川興経を排除し、その後は吉川家は元就の次男・元春によって統治されていくのでした。

今鎮西の暗殺・中

しかし迎え撃とうとした興経、ある事に気がつきます。興経の側近で、近隣にその名の聞こえた勇将豊島内蔵丞興信が見当たりません。

「そういえば元就が『興経殿の持ってる三原っていう名刀見せて欲しいな!大事なものだから豊島くんに持ってこさせてね!』と言っていたから昨日元就の所へ使いにやったんだった

要は元就に図られたのです。恐らく豊島はもう殺されてることでしょう。しかしだからといって臆する興経ではありません。討手を自慢の弓で迎え撃とうとしました、が、なんと弓の弦が全部切られているではありませんか。実はこちらも既に元就に抱き込まれた部下が、事前に弓を使えなくしていたのでした。

「これほど運つきざれば、われ今、人手にかかることあらじ、天、われを亡ぼせり、人を恨むべからず」

こんなについていないなんて、さては天が俺を滅ぼそうとしているのだろう、そう大笑いして興経は右手に三尺五寸の青江の刀、左手に二尺八寸の盛家の刀を振りかざします。ここで大笑いできるあたり、性格に多少難有りといえどさすがは豪傑です。

興経は広縁の端に立って、討手が押し寄せてくるのを迎え打とうとしました。しかし元就も念には念を入れたのか、ここまで行けば執念とばかりに刀は全て刃が潰されていました。

今鎮西の暗殺・前

毛利元就の次男・吉川元春が吉川家に養子にいった経緯は話しましたね。今回はそれにより当主の座を追われた前吉川当主・吉川興経の話です。この話もさりげに元就の策謀が光ります。

安芸北部から石見南部に勢力を張った吉川興経は、「鬼吉川」と称された曽祖父吉川経基の再来とまで言われた剛勇無双の武人でした。特にその強弓は伝説の鎮西八郎為朝に匹敵するとして「今鎮西」と呼ばれていた程であったといいます。

しかしその一方で武将としては無節操で、大内・尼子の間で日和見、離反を繰り返していました。戦国の地方豪族には珍しくない話なのですが、親戚の毛利元就と違って興経の場合には深慮遠謀というものはありませんでした。また新参の部下を可愛がる一方で父親の代からの家臣たちは退けるなどをしていたこともあり、その場次第の無節操さはついに家臣からも見放され、吉川家は元就に乗っ取られてしまいます。

元就は次男の元春を養子に入れた後、興経は本拠から引き離して隠居させます。しかし興経はこれを不満に思ったのか、何やら画策を始めました。このままでは元春を安心して吉川へはやれません。

殺すしかない、元就はそう決断しました。

ついに興経暗殺命令が下ります。しかし興経は無双。元就は慎重に策を練ります。

天文19年9月27日未明、熊谷信直(元春の舅です)と天野隆重の手勢300騎が興経の館を急襲!興経はこれを迎え撃ちます。