鳥取の渇え殺し

今回のお話は羽柴秀吉、黒田官兵衛らによる鳥取城攻めのお話ですが、このお話、実際に合った物ながら大変後味の悪い話でもあります。読む人間を選ぶかと思われますので、凄惨なお話が苦手な方はスルー推奨です。

 

天正9年(1581年)6月。前の年に鳥取城主である山名豊国は織田軍に降伏。ですが鳥取城内兵は毛利への従属を主張して主と対立。果てに山名豊国を追放して3月に毛利より新たな主、吉川経家を城主に迎え入れました。

因幡国の鳥取城へ秀吉は6月に再び出兵、これを第二次鳥取城攻めと呼びます。この軍には官兵衛も加わっていました。当時鳥取城内では不作により兵糧が乏しく、加えて秀吉らによる鉄壁の鳥取城包囲網により兵站線を遮断。細川藤孝らが率いる水軍により海からも完全に包囲され、鳥取城は少ない兵糧で籠城を余儀なくされます。その上で近隣の村を襲い、鳥取城に多くの人間が逃げ込むように仕向けました。そう、兵糧攻めです。

鳥取城内は餓え苦しむ人間が溢れかえり、凄惨極まりない状況になり、わずか三カ月で降伏を余儀なくされました。これは鳥取の渇え殺し(かつえごろし)と呼ばれています。鳥取城では悲惨な事に死肉を奪い合うような事態まで追い込まれただけでなく、生き残った半数の人間もまた、降伏後に食事をした所胃痙攣で死んでしまいました。戦国時代でも有数の悲惨な戦の一つです。

 

さて、毛利攻めで手柄を上げていく官兵衛と秀吉ですが、思いもよらない事態が引き起こされます。それこそ次回の話、うっかり官兵衛人生最大のうっかりの話です。

 

2014年2月16日 鳥取の渇え殺し はコメントを受け付けていません。 黒田官兵衛