木崎原決戦

一時撤退して態勢を整える伊東軍は白鳥山に登ります。しかしそこには既に義弘の手の者が回っていました。僧侶と農民ら300人が太鼓を打ち鳴らし、幟を立てて騒ぎ出した。これを伏兵と慌てた伊東軍に義弘は別働隊を後方に回らせ一度自身も正面から突撃を試みるもこれには敗北。

しかしその後態勢を立て直すのは流石武勇の義弘、伊東軍の予想をはるかに超えた早さでした。そして後方からの攻撃に加え、伏せていた兵の攻撃。島津家お得意の戦法「釣り野伏せ」です。伊東軍は必死に撤退するも、丁度ここに援軍として現れた新納忠元の150騎らに悉く打倒されることとなります。

結果としては島津軍の勝利として終わるも、敵味方同様に被害は甚大でした。ここが織田信長の桶狭間の戦いとは違う所ですね。この戦いで伊東軍は幹部クラスの武士を多く失った事もあり、後々の伊東家の衰退につながっていったと言われています。対して島津側も8割近い兵を失い、付近の積み重なった兵士の遺体を片付けるのに四カ月もの時間を朗したとか・・・。この時、義弘は近辺に地蔵塔を立てさせ、敵味方関係なく戦死者の弔いをしたと言われています。それほどでに激しい戦いだったのでしょう。

これにより伊東家は衰退していき、肝付家より早く崩壊を迎えます。そして肝付家もまた島津家に敗退を続け降伏。島津家は南九州に名だたる大名になっていくのです。