田北鎮周の討死

既に討死を覚悟していた田北鎮周は、軍議もそこそこに自分の陣に帰って翌日の討死の為の最期の酒盛りを始めました。その覚悟はもう出陣よりも前から、日向侵攻が決定された時から始まっていたのでしょう。翌日、田北鎮周の部隊は独断で島津軍との交戦を開始。お互いの陣を挟んであった川を渡って敵陣へ突撃を開始します。これに影響されたのか他の隊も次々に後を追って突撃を開始、部隊をまとめる事が出来なかった田原親賢も、なし崩しに戦を開始します。

両軍は木城町下鶴付近で合戦に及びますが、緒戦では死を覚悟した大友軍の勢いが勝りました。ここで島津軍の北郷久盛が討死し、島津軍の前線部隊は崩壊してしまいます。その勢いを借りて大友軍は島津軍の本陣への突撃していきますが、結果として敵中への深入りの形になってしまいます。この状態は島津軍にとって絶好の機会、これを逃す手立てはありません。

すかさず側面から渡河中の敵に対して鉄砲の乱射突出部隊を側面から叩いていきます。これに合わせて島津軍の一斉反撃が開始。高城の島津家久もこれに合わせて城から討って出て攻勢に回ります。各方面を島津軍に囲まれて攻撃を受けた大友軍は、そのまま崩壊していく事になります。もちろん、先陣を切っていった田北鎮周もここで本人の望み通り討死してしまうのでした。