相良義陽の友誼

 

相良義陽、甲斐宗運両名は決戦の地へと向かいます。場所は肥後響野、此処に義陽は着陣します。ですがここ響野は四方が開けた守りにくい土地で有名でした。宗運は義陽が響野に着陣したという報告に「義陽の陣法と思えぬ、間違えではないか」と狼狽しました。ですがこの報告が真実だと知った宗運は、その義陽の覚悟もまた悟ったのでしょう。

「相良の命運も尽きた。自ら死地を選んだとしか思えぬ」

そう天を仰いで涙したと言われています。友誼も信義も貫いたまま家を守ろうとした盟友の覚悟を、宗運も悟ったのでしょう。その後、宗運は義陽の陣を奇襲。この時義陽は家臣の撤退の進言を断り、床几に腰掛けて団扇を握りしめたまま、刀を抜くことも無く討ち死にしました。この時宗運は「相良を失い阿蘇家も3年うちに滅亡するだろう」と語ったと言われています。そして義陽に従い出陣した相良勢もまた、半数余りが討ち死にするありさまでした。

しかしこの相良勢の戦いは島津義久の心を打ち、相良氏の城は島津より変換され、義陽の息子は相良家を無事に相続。島津家の家臣として相良家のお家の存続はなりました。一方で宗運はこの二年後病死。その言葉通り阿蘇家も急速に衰退して島津家に滅ぼされてしまいました。

こうして島津家は九州の南半分を支配する大勢力となったのです。