耳川の戦いの由来

さて島津家に討死覚悟で突撃した大友家家臣・田北鎮周。もちろんこの耳川の戦いで討ち死にしたのは彼だけではありません。今まで幾度となく大友家の窮地を救ってきた人物や、数々の有力家臣がこの戦いでその命を散らす事になってしまいます。量らずしも田北鎮周の突撃が、後の大友家の命運を縮める結果になってしまった事は皮肉ですね。

さてこの耳川の戦いでは島津家に包囲されて攻撃を喰らった大友家ですが、その大友家が最も被害を被ったのはその耳川です。この時耳川は増水しており、多くの大友軍の兵が溺死したといわれています。このため、耳川の戦いと呼ばれているのです。

天の時地の利人の輪と言いますが、戦った場所も大友家にとって悪条件にあったのですね。

さてこの戦いで命を落とした人物の中には大友家の軍師的立場にあった角隅石宗の名もあります。彼は開戦前から敗北を悟っており、戦の前に自らの秘伝の書を焼き捨ててから敵陣に突撃をしていったと言われています。こんな事を言ってはなんですが、角隅石宗の秘伝の書というと気になりますね。何が書かれてあったのか・・・。

こうして数多くの家臣を失い、戦に負けた大友家。再び各勢力は大友家に反乱。龍造寺家も侵攻を再開。日向の地を奪った島津家の勢いは増して・・・大友家にとってこの耳川の戦いは、何も得られないばかりか不利益ばかり得る戦いとなってしまったのでした。

 


2014年4月8日 耳川の戦いの由来 はコメントを受け付けていません。 九州