亀井重綱の忠義・後

しかし重綱はこう言いました。

「昔、経久様は私を興久様の付家老とする際、『興久を守り立て、末代まで中国地方に名将たる名を残さしめよ』と言って幼子をお預け下さいました。なので私め、興久様に武芸武略の全てをお教え致したる所、その成長は著しく早くから他人勝り、この間まで伯耆・出雲に肩を並べる者もあるまじ、これ我が手柄なり、と自負しておりました。しかし今、このような悪事を企てるに及んだのは実に我が補佐の届かざる罪でございます。自害して詫びるべきを、かつての恩の忘れ難さについここまで来て余計なことまで語ってしまいました。私はもはや興久様と君臣の契りを交わした身、経久様の仰せに従い、ここに留まるわけには参りませぬ。これにてお暇いたす!」

重綱は言うが早いかサッと座を立ち、門のすぐ外につないでおいた馬に飛び乗りって「止められる者あらば、止めてみよ!!」と叫んで城を駆け抜け、城下に火を放って風のように走り去りました。経久の家臣が追撃しようとしたが、経久が「追うな!」と堅く止めるので、誰一人これを追う者はいませんでした。

その後起こった興久の乱は大乱となり、重綱は尼子国久に討たれました。重綱の死を聞いた経久は、

「重綱のごとき進退に勇あり、心に堪忍深き侍は稀だった。彼が我ら親子の間に臣たらんとしてくれた行動の数々、思い知るべきである」

と言って嘆いたといいます。

亀井重綱、尼子家の悲劇の陰にいた忠臣の逸話です。

亀井重綱の忠義・前

さて尼子家の武将最後の話。尼子経久の三男・塩谷輿久に仕えた人物、亀井重綱の話です。この重綱は前回出てきた亀井さんこと亀井玆矩の妻の大叔父に当たる人物、と言われています。

ある時、輿久は父・経久に領地の加増を申し出ましたが、つれなく断られました。この事を不満に思った輿久は乱を起こしてしまった事は以前話したと思います。今回の話は、これを深く解説していきます。

領地の加増を断られた輿久、彼は家老であった亀井重綱に自らの怒りをぶちまけました。

「これほどまでに宗家に尽くしている私を無下に扱うとは!これは筆頭家老で晴久付きの亀井安綱の入れ知恵だろう。ならば富田城を襲って父を幽閉し、晴久を殺し、憎き安綱めを鋸挽きにしてくれようぞ!」

主君が謀反を企て、己の兄に憎しみを向けるのに驚いた重綱は、興久を諌めました。

「父が悪くとも子が孝行を尽くせば、父も顧みて元の絆を取り戻せるでしょう。それでも殿が我が兄・安綱を憎むとあらば、拙者一人富田城に乗り込んで兄と刺し違えて参りましょう。とにかく、どうか謀反だけはお止めくだされ」

しかし興久の怒りと野心は収まらず、享禄3年、輿久はついに兵を挙げてしまいました。蜂起の前日、重綱は密かに月山冨田城の経久を訪ねて全てを打ち明けました。経久は興久に対し激怒したが、重綱には事が済むまで富田城に留まるよう言い渡しました。