河童と井上氏の顛末

ちょっと話が前後しますが、ここでとある逸話をご紹介しましょう。その登場人物は河童。おとぎ話に出てくる、あの河童です。

時は天文3年8月の夏の盛り、毛利元就とその一党が、安芸の吉田に本拠を構えていた頃のことです。 吉田川の釜淵と呼ばれる水底に、淵猿と呼ばれる恐るべき大河童が現れ、人々に恐れられていました。その大河童は 百人力の怪力をもって人馬を襲い食らうという、おとぎ話レベルではなく正真正銘の怪物です。

この怪物をを退治してくれようと名乗りを上げたのが、毛利家の武人・井上元重、通称・荒源三郎と呼ばれた人物です。 しかしこの退治方法が凄い。

源三郎は百人力の淵猿にいきなりガチンコの肉体勝負を挑んだのです。源三郎も七十人力と呼ばれる力自慢の人間でした。もはやそいつも化物では、なんて言ってはいけません。

化け物同士二人の戦は長く続きましたが、最後に勝負を制したのは源三郎の方でした。 淵猿の首を掴んで全力で振り回したところ、頭の皿に溜まっていた水が流れ落ちて、淵猿は百人力を失って負けたのです。こうして吉田川の淵猿は退治されました。

そこでこの話は終わります。何の教訓もなく、終わるのです。

河童は人に近い化物として多々出てきます。お礼をしたり、騙されたり、相撲を取って負けたり、どこか憎めない存在のように描かれていますが、この河童はただひたすらに恐ろしい化物として現れ、死闘の果てに退治されます。そしてそこで話は終わり、教訓もないただの河童退治の話です。

しかしその後七十人力の源三郎は、天文19年の元就による井上一族粛清のとき、一族郎党と共に殺されました。化物を真っ向勝負で打ち倒せた人物は、ここで粛清にあってその命を散らせました。

もしかしてこの話、生きている人間が一番怖いという寓話なのかも、しれませんね。

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)後

いかがでしょうか。読んでみて皆さんはどう思いましたか?私は

長いよ!!

の一言でしたね。(苦笑

いや、いい事を言っているのはわかるのですが、何とも同じことの繰り返しというかそれが冗長というかなんなのか。貰った隆景も隆景で読んでいて何を思ったのか激しく気になりますね。良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ、と言いたくなってきてしまいます。出した相手が父親であること、内容が自分の過去語りが入っていて(自分の教訓からと言ったらそれまでですが)くどくどしいということ、結局のところお前は我慢しなさいよという説教くさい事を考えると、隆景も面倒くさかったのではと邪推してしまいます。(苦笑

しかし話が長い、同じことの繰り返し、説教、ということを踏まえると、本当に息子を心配していて、注意したかったのではとも感じられます。もしかしたら謀神・毛利元就は心配性であったのかもしれませんね。大事なことだから二度言った、のでしょうか?(まぁ二度どころじゃない気もしますが)

因みに「良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ」と書きましたが、この手紙実は本当に長いので前半部の重要な所だけ書き出したものです。

書き出してこれか、とは言わないで…

 

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)中

お次は文章を読みやすく、訳したものです。

又四郎(隆景)へ 元就より

児玉に聞いて大体のことは分かった。お前が言っていることはよく分かるよ。

今更言うようなことでもないし、前々から言ってることだけど、堪忍していれば物事は悪いようには絶対に進まない。だから我慢しなさい。

お父さんなんか井上の者達に、興元が亡くなってから40年間も、家中の皆がまるで主人に仕えるように井上一族の言いなりになっているのを我慢してきたんだ。

その悔しさは言うに堪えないと思ってほしい。

40年の間ずっと耐えてきたことは、今更言う必要もないだろう。

ただ、私も年を取り、このまま無念を晴らさずに死ぬのはなんとも我慢できないと思ったからこそ、この度の処罰を下したんだ。

でもね、どんな事も考えなしに適当にする事は絶対にしてはいけないよ。

第一、その家の主人が家臣を粛清することは手足を斬るような事であって、してはいけない事の中で一番悪いことなんだ。やってはいけない事としてこれよりひどいことはないぞ。

井上一族の事はああでもしないと家を保つことができなかったから、どうしても避けては通れない道だったからこそやったんだよ。

お前の言い分は、大体はわかっている。

でもお前に関して言えば親類や家臣の方達はいずれもお前によく従ってくれているじゃないか。

それに皆、他の家の者達とは比べ物にのないぐらいよく働くと聞いているよ。家臣に大切なのはそういうことなんだよ。

そういう事だから、些細な事でとむっとして腹ただしく言うのは絶対にしてはいけない。

皆の意見に合わない事や道理に適っていない事を言ってしまうような事は、一番避けなければならない事だ。

今までのところ、御家中の皆さんはお前を誉めていると聞いているよ。

お前を悪いようには少しも言っていないようなのだから、お前が万一家中の事で道理に反するような事を言ったりすることは

もってのほかだから、そういう間違ったことがないように見下した言い方をしないように、よくよく気をつけなさいね。

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)前

では今回から元就が家臣粛清に対して息子、隆景に送った文章を紹介していきます。まずは本文でご覧下さい。

 

又四へ もと就

又児蔵所へみつみつにて承る儀、其の申し聞かせ候ほどに承知候、

相かまへて々、いうやうの事候共、御かんにん候はては曲あるましく候々、

我々などは、井上之者共に、興元死去以来40年に及び、悉く皆彼の者共を主人に仕え候しかるをこらへ候、

その内の口惜しさなどは、いうばかりとおぼしめし候哉、

既40年の事候は間、長々敷かんにん、申すもおろかに候々、

唯今はや我々も年より候程、もし々かやうの無念を散らし候はで、いか躰にも罷り成し候しかばと存知候てこそ、此の時分存立たる事にて候へ、

およその事共に聊爾なる儀共仕べく事有るまじき候、

第一、其の家の主人内之者をうしない候事は、手足をきるにてこそ候へば、わるき事の最上にて候、よからぬ儀是に過ぎたる事にて候へ共、

此の家の事はかやうに仕候はては叶わぬことにて候程に、のがれぬ事にてこそ仕候へ、

およその事共にては候はず候、

そこもとの事は、御親類御被官中いつれも々ならいよく御入候にては

みな々馳走比類なき由承りおよび候の間、かんえう此の事にて候、

然る處少の事共気持ちたて共めされ候て、何かと仰せられ候はん事は、努々あるまじき候、

おかしけなる事共、仰しめされ候ては、ことの外めされさけたる事にてあるへく候、

唯今迄は御家中衆も其の方をばほめ申すやうにこそ聞きおよび候へ、

あしざまには聊かも申されぬように候の處、萬一おかしき事共仰しめされ候はば、

以て外に各曲無く見さけ申されるべく候の条、よくよく御心え候へく候々

 

粛清の件、息子隆景へ。(短いversion)

積年の恨みに加え、家中で専横、横領を繰り返す井上一派を粛清した毛利元就。彼はそのすぐ後に、小早川家の跡を継いだ三男・小早川隆景に対してこのような手紙を送っています。今回はその手紙の要所部分だけを、短くまとめて抜き出したものをご紹介します。

「その家の主人が家臣を殺す事は、手足を切るようなもので最悪の行為です。これ以上悪いことはないでしょう。一般的に家臣を殺すということは、その主人に器量がないために起こったことであり、器量のある主人は家臣を殺すような真似はしないものです。このことをよくよく、心得て置いてください。」

これが井上一派粛清に関してのことだということは隆景もは充分に知っていたでしょう。父・元就は自身の苦悩と自戒を篭めて、この手紙を息子に当てて書いたのです。折しもこの時、小早川家を継いだ隆景は家臣の統率がうまくいかず、粛清も視野に入れていたといいます。そんな息子を思って、「父親のようなことはしてくれるな、自分のようにはなるな」と手紙を書いたのかもしれませんね。

このような逸話を見る限りでは、何だか三男の隆景が一番元就に似ている気がします。嫡男、隆元は容姿も母親にのようですし、だったら間の元春と五龍は・・・うーん、吉川の血筋ですかね。

ともあれ次回は、「この手紙をさらに」詳しく見ていくことにしましょう。元就の手紙の冗長さが理解できるでしょう。

 

井上一派粛清

毛利家の渦中に、井上元兼という人物がいました。彼ら井上一族は元は毛利家と対立していましたが、元就の父の弘元により家臣に組み込まれ、それ以後は毛利家によく尽くして働いてきました。元兼も優秀な人物であり、特にその才覚を主に財政面において活躍したと言われています。また、元就の家督相続を井上就在・井上元盛・井上元貞・井上元吉ら他の井上一族とともに支持するなど、元就の補佐を努めて大いに功績をあげていました。

しかし財政面への明るさから横領を始め、家中への強い発言力から専横を始めるようになってしまいます。そして元就もまた、決断を下しました。

1550年7月13日に、井上元兼とその一族は殺害され、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させられました。これは二度とこのようなことが起きないために、毛利家内での統率力を強化しました。

しかしこの際には、井上一族を全てが殺されたわけではありません。前回にの井上光俊のように忠義を尽くしていた者や、井上一族の長老である光兼など、恩義のある者達は助命しています。この際に処断されたのは、主だった30名のみのようです。

因みに元就自身がこの誅伐に関して、「井上には幼いころに所領を横取りされた」などと手紙に残っているので、積もり積もっていた恨みもここで噴出したものと見て間違いないでしょう。しかしその一方で、家臣を処断することに強い苦悩も感じていたようです。

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