その首の行き先

さて前回の「伊香賀の立ち腹」を見て頂ければ疑問に思う方もいるかと思いますが、ここまで必死で隠された陶軍の総大将、陶晴賢の首は一体どのようにして見つかってしまったのか?毛利軍がそれこそ必死になって地面を掘って回ったのか?もぐらなのか?いいや穴掘り狐?毛利狐だけに!と思いそうですが、実はこの話の先がまだ逸話として残っているのです。

この首の在りか、実は胡餅を持たされてた晴賢の小姓が生き残って毛利方に話したっということになっています。彼は伊香賀隆正に

「お前はまだ幼いので、毛利の者達も殺しはしないだろう。よいか、絶対に晴賢さまの死と首の在りかを話してはならない。山口に帰ってから信用できる重臣だけにそっと話すのだぞ。わかったな」

と、晴賢の首の在りかを黙っているように念を押されたのですが、なんとこの小姓、自分から落ち武者狩りの毛利勢のところに行って

「大将首の在り処を教えるからどうか命を助けてください」

と命乞いをして、伊香賀が最後まで守り隠そうとした陶晴賢の首の在りかをあっさり話してしまったんだそうな。あの伊香賀隆正の壮絶で悲しい最期が全く浮かばれない嫌な話ですが、まあ伝承の一つとしてお考えください。

伊香賀の立ち腹・後

この時、晴賢の介錯をしたの人物こそ伊香賀民部少輔隆正、陶晴賢の乳人(めのと・養育係)を務めた男です。伊香賀は刀を取り落とし、晴賢の遺骸を掻き抱いくと、
「あなた様が赤子のころから一日も、片時も離れずに、慈しんで参りましたものを。日に日に成長されるのがどんなに嬉しかったことか。昔のこともまるで昨日のように覚えております。私こそが先立つべきなのに、その首をこの手で落とさねばならないとは」

と、泣き崩れました。陶晴賢・享年35歳。その早すぎる死は、幼い頃からその成長を見守り続けてきた養育係から見てどのようなものであったのか。そしてその介錯をしなければならないという思い悲しみは如何ほどのものであったのか。心中を想像するだけで涙を誘います。

さて伊香賀を含め、残った者達は陶晴賢の首を小袖に包んで岩陰に厳重に隠し終えると、さあ自分たちも、と思い思いに刺し違えて息を引き取っていきました。伊香賀もまた晴賢の傍らで死にたかっのですが、乳人の自分の遺骸が近くで見つかると主君である晴賢の首も探し出されてしまうだろうと考えて、数百メートルも離れた浜辺で立ったまま腹を掻き破り、自分で首を押し切って果てたといいます。

正に立ち腹。西国一の侍大将を育てた人物の、壮絶な最期です。

伊香賀の立ち腹・前

今回は陶晴賢の部下であり、勇将伊香賀隆正の逸話をご紹介します。

時は1555年。厳島合戦と呼ばれるこの戦いで、陶軍と毛利軍がぶつかり合いました。しかし大軍であった事の油断と欠点を突かれた上に、毛利軍の奇襲にあって部隊は大混乱、総崩れとなってしまいます。

晴賢はこれに踏みとどまって戦い続け、華々しく討ち死にしようと決めましたが側近達に引きずられるようにして退却します。その後、上陸した大元浦まで退いて陣を立て直そうとするも失敗し、逃れる為の船を探しても既に先立って逃げだした部下達が乗って逃げているので使える船は一隻も無い状態でした。

・・・もはやこれまで!

晴賢も晴賢を引きずって退却してきた側近達も、情けなく討たれるよりは自刃しようと覚悟を決めます。小姓に持たせていた胡餅を分け合って食べ、 松の葉で綴じた木の葉を杯として酒の代わりに谷川の水を注いで呑み交わして、 脇差を扇に見立てて謡い舞いました。そう、最期の別れの宴です。

晴賢は石の上に座って、その腹を十字にかっ切りました。そして腸をつかみ出そうとした所に太刀が振り下ろされ、陶晴賢の首は落ちました。西国一の侍大将、陶晴賢の最期でした。その最期こそは潔いものであったと思います。