伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・4

しかし同時に彼女は、命を落とした女性に救いの道が全く開かれていないわけではないことも知っていました。

幼い頃から毎日読誦した法華経を読み、五の巻の摩訶波闍波題比丘尼が仏になる予言を受けた文に至った彼女は涙を流し、法華経王に罪科を消除し、先だった夫と同じ寂光浄土に迎え給えと経誦し終わると、経典の表紙の裏に

「死出の山したひてぞゆく契置し君が言葉を道の枝折に」

と書きつけました。そして念仏を十返ほど唱えると、守り刀を抜いて胸に突きたて、うつ伏せになって死んでしまいました。二夫を変えざる事すら珍しい世にあって、命をかけて二世の契りを結んだこの婦人の事は人々の心をうち、遠く京の都まで伝わっただけでなく漁夫や樵に至るまで知れ渡り、皆、婦人の貞淑と哀れさに涙を流したということです。

現代人の感覚からすれば分かりにくいかもしれませんが、夫が夫なれば妻も妻。己の命の捨て場所、決める場所を知っていた夫婦だったのでしょう。死に場所こそ遠く海を挟んで離れ離れにされてしまった二人ですが、果たして極楽浄土で再び出会えたのでしょうか。

男女の離れ離れというと七夕の話が思い起こされますが、二人の間の海は死ぬまで渡れなかったのが悲しい所です。しかし三図の川のほとりで、再び出会えたのかもしれませんね。

伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・3

さて主君の最期に送れた伊賀崎治堅は、遠い異国の地でその忠義により追腹を切って後を追いました。しかし治堅、日本に残してきた妻が一人おりました。

日本で夫の殉死を知った妻は夫に死に遅れたことを非常に嘆きました。何だか似ているこの夫婦、実は恋愛結婚であり、十九と十五の時から仲睦まじく次の世も共にと二世を誓った夫婦でもあったのです。

この婦人、治堅が朝鮮に立つ時、

「船が沈むかもしれず、無事に渡れても戦で命を落とすかもしれない。自分が死んだと聞いたら後生をよく弔ってほしい」

と言われた時に、

「仰る通り無常の世です。ですが貴方様が亡くなったと聞いてどうして私も生きていれましょうか。すぐに深い谷の淵に身を投げ、来世も同じ蓮の座をわけあいましょう。たとえ輪廻を脱せず無明の業にとらわれたとしても、二人で手をとりあって並んで廻ろうではありませんか」

と答えたという過去があります。それだけ深く愛しあったのですから、遠い地で夫を亡くした事はどれほどに悲しかったか想像に難くありません。ですが彼女には一つだけ心配な事がありました。

当時、仏の教えでは女性の成仏は難しいとされていました。そのことだけが彼女の心にかかっていたのです。

伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・2

「元満様の祖父、判官殿は大内義興卿在京時、裁袖余桃の契り深きが故に防州へ共に下られた。その時私の祖父も主人に供奉して下向してから主君も三代、我が家も三代お仕えしてきた。中でも私は幼少時から元満様に可愛がって頂いてきて、片時もお傍を離れずご奉公してきたというのに、このような大事な時に同じ場所にさえいる事が出来なかったという事は前世での報いでもあったのだろうか。神祇三宝に憎まれ君臣の契りも尽き果てたのか。遅れたことは口惜しいが、我が主君よ暫しお待ち下さい。腹を切って追いつき、死出の山の露を払い、三途の川を瀬踏みしてお役に立ち、その時こそ御最後に遅れてしまった言い訳を致しましょう」

この言葉を聞いた吉安、白松も

「私たちもどうして後に残ろうか、同じ道を行こうではないか」

と言って三人共に覚悟と心を決めました。彼らは主の死骸を三度礼拝し、腹を十文字に掻き破って同じ枕に伏しました。人々はこの忠義と勇気を比類なきものに感じ、称賛したということです。

続きます。

 

 

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どうでもいいのですが「三途の川を瀬踏みして」というのは自力で渡るという事でしょうか。渡し賃は真田さんのお家が払ってくれるのでそれくらい払ってあげて欲しいですよね川渡しも生活があるんですよ。

どうも私の祖父が川渡しだったのでここが気にかかりました。え、別にどうでもいい?失礼しました!

伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・1

さて大内家にまつわる逸話と、その関係者になる武将達の話をご紹介してきました。ここで時代こそずっと首、朝鮮出兵時の話になるのですが、大内義隆の自刃で介錯を務めた冷泉隆豊の息子に関係する逸話がありますので、最後にご紹介しておきましょう。

さて時は流れに流れて豊臣政権で行なわれた朝鮮陣でのことです。築城中だった蔚山は慶長二年十二月二十二日明け方頃明軍の急襲を受けました。

父兄を戦で失った経歴を持つ、剛勇の一族である冷泉民部少輔元満は城外の仮営にありましたが、敵に背を見せまいと思ったのか城内を目指そうとはせず、己の陣屋よりも二三町も敵に近い場所で戦死しました。この人物こそ冷泉隆豊の次男です。

さてこの元満にも当然ながら優秀な家臣がついていました。彼らの名は伊賀崎治堅、白松時勝、吉安言之といいます。しかしこの時、彼らは任務で別の場所にいました。もちろんは事を知ると主君の危機と昼夜を問わず馬をとばして駆けつけたのですが、帰りついた頃には刺し違えて死ぬ敵すら引いてしまった後でした。主君の危機におらず、主君の死に目にも会えず、敵の敵すらいないその様に伊賀崎治堅は胸を打って嘆き悲しみましたが、暫くするとこう言いました。