実在した三年寝太郎

大内義隆と共に大寧寺の変で討ち死した冷泉隆豊、実はこの彼の縁者にあの有名な人物のモデルがいるのです。

さて時代は遥か前の1537年、武田信玄は初陣で平賀成頼を討ち取りその名を上げました。この時打ち取られた成頼の嫡子に、平賀清恒という人物がいます。彼は家を再興することができず、姉の嫁ぎ先であった冷泉隆豊を頼り周防に落ち延びて 大内氏に仕えたといわれています。

その後、大寧寺の変で主君が死ぬと長門の厚狭に落ち延び帰農しました。 3年もの熟考した末に鉱山にわらじを運び、鉱夫のわらじと交換することで わらじから砂金を集め莫大な資金を手にしたとされます。次に彼はこの資金を開拓に使うことにしました。

開拓により彼は厚狭川を堰き止め、千町ヶ原に水路をひき、灌漑をおこなうことで貧しい一帯を美田へと変えました。このような偉業をなした彼を村人は讃え、祠を建てて寝太郎権現と呼んだと言われます。

そう、あの有名な三年寝太郎のモデルになった人物なのです。

その記録が残っていないために三年間寝て過ごしたとされたり、当時発見されていない筈の佐渡金山で稼いだなど言われているので信憑性は低いようですが、寝太郎堰は確かに実在しています。

さてその後、彼は弟の白石国長とともに伊達氏に仕官したとも言われていますが詳細は定かではありません。しかしこう見るとお家再興にこそ失敗したものの、中々アグレッシブな人生を生き抜いた人物なのではないでしょうか。

伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・4

しかし同時に彼女は、命を落とした女性に救いの道が全く開かれていないわけではないことも知っていました。

幼い頃から毎日読誦した法華経を読み、五の巻の摩訶波闍波題比丘尼が仏になる予言を受けた文に至った彼女は涙を流し、法華経王に罪科を消除し、先だった夫と同じ寂光浄土に迎え給えと経誦し終わると、経典の表紙の裏に

「死出の山したひてぞゆく契置し君が言葉を道の枝折に」

と書きつけました。そして念仏を十返ほど唱えると、守り刀を抜いて胸に突きたて、うつ伏せになって死んでしまいました。二夫を変えざる事すら珍しい世にあって、命をかけて二世の契りを結んだこの婦人の事は人々の心をうち、遠く京の都まで伝わっただけでなく漁夫や樵に至るまで知れ渡り、皆、婦人の貞淑と哀れさに涙を流したということです。

現代人の感覚からすれば分かりにくいかもしれませんが、夫が夫なれば妻も妻。己の命の捨て場所、決める場所を知っていた夫婦だったのでしょう。死に場所こそ遠く海を挟んで離れ離れにされてしまった二人ですが、果たして極楽浄土で再び出会えたのでしょうか。

男女の離れ離れというと七夕の話が思い起こされますが、二人の間の海は死ぬまで渡れなかったのが悲しい所です。しかし三図の川のほとりで、再び出会えたのかもしれませんね。

伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・3

さて主君の最期に送れた伊賀崎治堅は、遠い異国の地でその忠義により追腹を切って後を追いました。しかし治堅、日本に残してきた妻が一人おりました。

日本で夫の殉死を知った妻は夫に死に遅れたことを非常に嘆きました。何だか似ているこの夫婦、実は恋愛結婚であり、十九と十五の時から仲睦まじく次の世も共にと二世を誓った夫婦でもあったのです。

この婦人、治堅が朝鮮に立つ時、

「船が沈むかもしれず、無事に渡れても戦で命を落とすかもしれない。自分が死んだと聞いたら後生をよく弔ってほしい」

と言われた時に、

「仰る通り無常の世です。ですが貴方様が亡くなったと聞いてどうして私も生きていれましょうか。すぐに深い谷の淵に身を投げ、来世も同じ蓮の座をわけあいましょう。たとえ輪廻を脱せず無明の業にとらわれたとしても、二人で手をとりあって並んで廻ろうではありませんか」

と答えたという過去があります。それだけ深く愛しあったのですから、遠い地で夫を亡くした事はどれほどに悲しかったか想像に難くありません。ですが彼女には一つだけ心配な事がありました。

当時、仏の教えでは女性の成仏は難しいとされていました。そのことだけが彼女の心にかかっていたのです。

伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・2

「元満様の祖父、判官殿は大内義興卿在京時、裁袖余桃の契り深きが故に防州へ共に下られた。その時私の祖父も主人に供奉して下向してから主君も三代、我が家も三代お仕えしてきた。中でも私は幼少時から元満様に可愛がって頂いてきて、片時もお傍を離れずご奉公してきたというのに、このような大事な時に同じ場所にさえいる事が出来なかったという事は前世での報いでもあったのだろうか。神祇三宝に憎まれ君臣の契りも尽き果てたのか。遅れたことは口惜しいが、我が主君よ暫しお待ち下さい。腹を切って追いつき、死出の山の露を払い、三途の川を瀬踏みしてお役に立ち、その時こそ御最後に遅れてしまった言い訳を致しましょう」

この言葉を聞いた吉安、白松も

「私たちもどうして後に残ろうか、同じ道を行こうではないか」

と言って三人共に覚悟と心を決めました。彼らは主の死骸を三度礼拝し、腹を十文字に掻き破って同じ枕に伏しました。人々はこの忠義と勇気を比類なきものに感じ、称賛したということです。

続きます。

 

 

・・・・・・。

どうでもいいのですが「三途の川を瀬踏みして」というのは自力で渡るという事でしょうか。渡し賃は真田さんのお家が払ってくれるのでそれくらい払ってあげて欲しいですよね川渡しも生活があるんですよ。

どうも私の祖父が川渡しだったのでここが気にかかりました。え、別にどうでもいい?失礼しました!

伊賀崎治堅の最期と、その妻の最期・1

さて大内家にまつわる逸話と、その関係者になる武将達の話をご紹介してきました。ここで時代こそずっと首、朝鮮出兵時の話になるのですが、大内義隆の自刃で介錯を務めた冷泉隆豊の息子に関係する逸話がありますので、最後にご紹介しておきましょう。

さて時は流れに流れて豊臣政権で行なわれた朝鮮陣でのことです。築城中だった蔚山は慶長二年十二月二十二日明け方頃明軍の急襲を受けました。

父兄を戦で失った経歴を持つ、剛勇の一族である冷泉民部少輔元満は城外の仮営にありましたが、敵に背を見せまいと思ったのか城内を目指そうとはせず、己の陣屋よりも二三町も敵に近い場所で戦死しました。この人物こそ冷泉隆豊の次男です。

さてこの元満にも当然ながら優秀な家臣がついていました。彼らの名は伊賀崎治堅、白松時勝、吉安言之といいます。しかしこの時、彼らは任務で別の場所にいました。もちろんは事を知ると主君の危機と昼夜を問わず馬をとばして駆けつけたのですが、帰りついた頃には刺し違えて死ぬ敵すら引いてしまった後でした。主君の危機におらず、主君の死に目にも会えず、敵の敵すらいないその様に伊賀崎治堅は胸を打って嘆き悲しみましたが、暫くするとこう言いました。

大内義隆様のご趣味

さて今回は・・・色々と問題になっている実際大問題に発展した大内義隆のその趣味について説明しましょう。

戦国時代では衆道が一般的でした。しかし大内義隆の衆道好みはやや常軌を逸脱していたというか・・・・以下は、義隆と交わった、もしくは交わった疑いのある人物達の羅列です。

陶義清・陶晴賢(兄弟)・毛利隆元・小早川隆景(兄弟)・相良武任・冷泉隆豊・清ノ四郎・安富源内・その他諸々・・・・。 因みに一時期には、山口から陶晴賢の住む富田若山まで(片道35キロ)6時間かけて馬で往復していたとか・・・。

毛利元就の長男・毛利隆元に至っては、本来人質という立場にもかかわらず賓客のような扱いをしたことで(どんだけ気に入られたんだ)、家臣達から不信感を抱かれる原因の一つにもなったようです。しかしその隆元は人質時代に父親の足手まといになると自害しようとした時には陶晴賢が駆け付けたとか言われているからきっと男色好みの容姿だったのでは

因みにこの男色好みにはあのフランシスコ・ザビエルが激怒したほど。ヤバい海外にまで

大寧寺の変の原因も、嘗ての寵童であった陶晴賢もこの頃には寵愛を失っており、相良武任や冷泉隆豊など文治派の美人官僚達が寵愛を獲るようになっていた事に対する不満が爆発したからだとも・・・つまりこの謀反の原因は痴情のもつれ但し男だ

まぁ何にせよ入れ込み過ぎるのは良くないね!という大内さんちのお話でした☆

この話を掲載した事を少し後悔している

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冷泉隆豊の最期

さて大内義隆の最期にも名が出てきた、冷泉隆豊の話をしましょう。

彼は大内義隆の寵臣の一人でした。寵臣とはまぁ・・・そういう事です。この件については後記事でまた纏めたいと思います。

さて義隆には他にもお気に入りの重臣達がいます。彼らの名は陶晴賢と相良武任。とてもやっかいな事にこの二人は家中の武断派と文治派の代表人物でした。大内義隆が色好みで家を滅ぼしたと囁かれるのにはこういう背景があるからなのですが・・・。

さてこの両名は大内家の実権を争い、ついに晴賢の謀反に発展してしまいます。隆豊は、かねてから両者の関係修復に心を砕き、同時に主君にも諫言を何度も行ないました。また晴賢の性格を警戒し、暗殺を進言していたが却下されてしまいます。

かくして隆豊の予想は的中。人望の無い義隆からは次々に家臣が離反していきます。しかしそんな中でも隆豊はあくまで忠義を尽くして戦いますが、多勢に無勢。ついに義隆は切腹します。

この時隆豊は「これより殿が切腹される。攻撃を控えよ」と寄せ手に要請。 さすがに旧主であるためか寄せ手もこれに応じて攻撃を停止しました。隆豊は見事義隆の介錯をつとめ、首級を渡さぬよう遺骸を焼却しました。その後隆豊は圧倒的な敵軍に飛び込んで行き、己の腹を裂いて内臓を投げつけながら討ち死にしたといいます。

辞世の句は

「見よや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末も残さず

勿論、「末」と「陶」が引っ掛けられている事は言うまでもありません。主のとっかえひっかえに巻き込まれながらも、忠義を尽くした冷泉隆豊の逸話でした。

そして運命の変が起きる

政治を顧みなくなった当主に当然ながら家臣達の不満は募り、遂に大内家に、大内義隆に運命の時が来てしまいます。

天文20年、1551年の8月の末。義隆と険悪な関係にあった武断派の陶隆房が遂に謀反の兵を挙げました。このクーデターは重臣であった内藤興盛も黙認し、義隆を救援することはなかったといいます。知らぬ内に、これほどまでに家臣らの心は義隆から離れていたのです。

義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしますが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこで立て籠もりました。この時に義隆に従っていた重臣の冷泉隆豊が目覚ましい奮戦をしますが、所詮は多勢に無勢。最後は義隆はこの隆豊の介錯で自害しますた。享年45歳。

辞世の句は

討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観

と伝わっています。

その後、義隆の実子の大内義尊も9月2日に陶軍に捕らえられて殺害されました。この義隆・義尊の死により周防大内氏は事実上滅亡しました。またこの時、周防に滞在していた左大臣三条公頼をはじめとする多くの公家達も、この謀反に巻き込まれ殺害されたと言います。特に義隆の側室であったおさいの方の父・大宮伊治はこれまでの事もあって真っ先に殺害されたと言われています。

此処に、西の京を築いた大内家は滅んだのでした。この戦こそ、後の世で大寧寺の変と呼ばれる戦です。

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