毛利両川体制

さて吉川元春の話が続きましたが父親である毛利元就に話を戻しましょう。策謀を重ねて、次男・元春に吉川家を継がせることに成功した元就。その一方で小早川家の相続問題で、当主・小早川繁平がまだ幼いこと、盲目であったことを理由に繁平を出家させるなどして三男・隆景に小早川家を継がせるように取り計らいます。

これにより元就は小早川氏の水軍を手に入れ、また以後に「毛利両川体制」と呼ばれる毛利家の補佐体制を確立、そして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏両家の勢力を取り込んだことによって、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしたのでした。さあ、毛利家はこれからどんどんとその勢いを増していきます。

しかし天文18年2月、元春と隆景を伴い山口へ下向しました。この時元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くまで伸びて、吉田に帰国したのは5月になってからでした。この頃の山口大内家は、主君の大内義隆の戦嫌いが加速し、陶晴賢ら武断派と文治派の対立が激しくなっていましたので、元就も病床の床にありながらも大内家の行く末を懸念していたのかもしれません・・・・。

因みにこの時元就を看病した井上光俊は元就への献身的な看病を感謝され、嫡男・隆元からお礼の書状を貰っています。この事が彼の身を助ける結果となるのは、また後日です。

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腹痛の妙薬?

さてこの流れで吉川元春の面白いというか、変わった逸話も一つご紹介しましょうか。吉川元春は一節には黒田官兵衛との会食後、無理をして鮭を食べて亡くなった、というのが通説ですが、それよりもっと昔の話。元春が体調を壊した時の話です。これには不思議な薬が出てきます。

ある時、元春は腹痛を覚えてそのまま病にかかってしましました。今でこそ場合に応じて色々な薬が用意されますが、この時代は特効薬というものはありません。

この時、元春はあるものを腹痛に効く薬として父親である毛利元就にないかと尋ねていたようです。

それはなんとカワウソ!現代日本では既に絶滅してしまっているカワウソですが、この時代にはそれなりに生息していたようです。しかしカワウソが腹痛の薬とは・・・

因みに元就の手元には肝心のカワウソがなく、元就は嫡男である隆元に

「元春が腹痛でカワウソを欲しがっていますがこちらにはありません。もし隆元が持っていたら元春に送ってあげてください」

と連絡し、隆元が

「少し古くなっていますがカワウソの塩漬けを持っています。すぐに元春に届けましょう」

となって元春にカワウソを送ったようです。その後、元春の病状は回復したというからカワウソは腹痛に効いたのでしょうか?しかしカワウソが薬とは・・・牛肉を薬食い、と言ったようなものなのでしょうかね・・・?

 

 

吉川元春と陶晴賢

さて吉川興経の話にも、吉川元春の舅になった熊谷信直が出てきましたね。婚姻政策により元春の味方になってくれたのです。そんな元春ですが、実は意外な人物とつながりがあります。実は元春は陶晴賢と義兄弟の契りを交わしているのです。今回はその義兄弟のいきさつについて解説していくことにしましょう。

さてそれは毛利父子が山口に来ていた時のことです。大内家家臣の相良武任が大内義隆に提案したのが始まりでした。

「義隆様、毛利元就は元々は尼子に仕えていました。毛利元就は優秀な人材で、稀有な人物です。なので再び元就が尼子になびかないようにしておいた方がよいでしょう。そこでご相談なのですが嫡子の隆元に関してですが、内藤興盛の娘なら義隆様に血筋も近いので養女に迎えて隆元と婚姻契約を結びましょう。そして次男の元春は元就と並び立つ良将の器だと評判です。ですのでこちらはの陶隆房(晴賢)と元春を義兄弟にしてしまいましょう。隆房も勇猛さでは西国一、あの二人に先陣を任せればかの蒙古の堅陣だとて大内家の敵ではございません!」

これを聞き入れた義隆は早速元就を呼んでこれを伝えると、元就もこの提案を大いに喜びました。要するに大内の毛利つなぎとめ政策の一環として元春と晴賢は義兄弟になったのです。なんともこれは・・・・義兄弟とはもっとロマンがあるものかと思っていましたが、現実的な理由があったのですね。

元春と晴賢、義兄弟にさせられる、という話でした。

今鎮西の暗殺・前

毛利元就の次男・吉川元春が吉川家に養子にいった経緯は話しましたね。今回はそれにより当主の座を追われた前吉川当主・吉川興経の話です。この話もさりげに元就の策謀が光ります。

安芸北部から石見南部に勢力を張った吉川興経は、「鬼吉川」と称された曽祖父吉川経基の再来とまで言われた剛勇無双の武人でした。特にその強弓は伝説の鎮西八郎為朝に匹敵するとして「今鎮西」と呼ばれていた程であったといいます。

しかしその一方で武将としては無節操で、大内・尼子の間で日和見、離反を繰り返していました。戦国の地方豪族には珍しくない話なのですが、親戚の毛利元就と違って興経の場合には深慮遠謀というものはありませんでした。また新参の部下を可愛がる一方で父親の代からの家臣たちは退けるなどをしていたこともあり、その場次第の無節操さはついに家臣からも見放され、吉川家は元就に乗っ取られてしまいます。

元就は次男の元春を養子に入れた後、興経は本拠から引き離して隠居させます。しかし興経はこれを不満に思ったのか、何やら画策を始めました。このままでは元春を安心して吉川へはやれません。

殺すしかない、元就はそう決断しました。

ついに興経暗殺命令が下ります。しかし興経は無双。元就は慎重に策を練ります。

天文19年9月27日未明、熊谷信直(元春の舅です)と天野隆重の手勢300騎が興経の館を急襲!興経はこれを迎え撃ちます。

吉川夫妻の手紙・後

さて引き続き、吉川夫妻が息子・吉川広家に送った手紙の紹介です。この当時まだまだ若かった広家は現代で言えば不良というかちょっと突っ張っていたというか、当時で言えば「かぶいている」状況にありました。しかもそれだけではなく、ややわがままな性格でもあったようです。

広家は他家に養子に出ていたですが、領地が少ないと不満を漏らし、もっと広い領地を持つ家の養子に鞍替えしようとしました。しかし当たり前ながらそんなことが許されることなく毛利本家から待ったがかかり、広家はますます不満に思っていました。そんなむくれてしまったわが子へ、吉川夫妻が連名で手紙を送りました。

 

決して本家を恨んではならぬ。もし、これが承知できなければ毛利・小早川・吉川三家に対し敵心ある者の生まれ変わりであると看做す。

 

内容だけ見ると頑固親父がワガママな息子に怒っているようですが、実際にはもう少し行動を自重してくれよ、というフレーズのようなものであったそうな。

三男・広家は後に人質として秀吉のもとへ送られましたが、元春は後に頼んで返してもらい手元に置きました。手のかかる子供ほど可愛かったのかもしれません。その後、兄・元長が夭折したため、広家が吉川家を継ぐことになります。

手がかかる子供ほど可愛い、吉川夫婦のお手紙です。

吉川夫妻の手紙・前

さて夫婦仲がよく、優秀な子供たちを授かった吉川元春と妻である新庄局。そんな2人が晩年、我が子に当てた手紙が残っていますので少しご紹介しましょう。これは三男の息子・広家に宛てた手紙です。

 

武士は身だしなみをきちんとすることが大切だ。お前は気に入らないと思うが言っておく。今の流行を追いかけることは、武士の家に生まれたお前にはふさわしくないことだ。額をとにかく剃りなさい。そのうえで鬢をつければ立派に見える。

それをせずに、商人か乞食坊主か恵比須舞いのような格好をしているのは理解できない。親から見てこうすれば良いと思うことは、たとえお前が気に入らなくても、親孝行だと思って直してもらいたい。

お前は盃を目の高さ、鼻の高さまで上げて戴いていた。なるほどこれはちょっと見には粋に見えるがよろしくない。偉い人から戴いた盃は目の上まで捧げて鄭重に戴くように。

また、他人から敬礼を受けるときも目礼ではいけない。少し身を前にかがめて敬礼しなさい。

 

息子への忠告の手紙ですが、今の親が子どもに言うことと何だか似ていませんか?流行りを追いかけて不良になってきたわが子への説教というところでしょうか。口うるさいと言われそうだけど言って上げるのが親の役目、元春も人の親ですね。

元春の子作り

さて今回は前回に引き続き、吉川元春とその妻である新庄局のお話です。女性の名前は残っていないことが多いので、新庄局で統一したいと思います。

数奇な運命と打算により夫婦になった二人ですが、その夫婦仲は大変良かったといいます。毛利家の正室・妙玖夫人が産んだ男子には共通するのですが、三人とも側室を持ってなかったと言います。父親と母親がよほど仲が良かったのか、それとも生来の性格からだったのかはわかりません。二人の間には夭折してしまった子を含め、五人の子どもを授かっています。内一人は娘で、他の四人は男の子。中々に優秀な子供ぞろいだったとか・・・・。

さて下世話な話ですが、この子供たちの生まれた年と年代を見ていってみましょう。これには不思議な法則があります。

長男:元長1548年生まれ 前年に元春が妻を娶っているので結婚記念

次男:元氏1556年生まれ 前年に厳島合戦で勝利したので厳島記念

三男:広家1561年12月生まれ 同じ年の1月頃に長男の元服があったので元服記念

なんとまあ上手く出来上がったこと(笑)

大きなイベントがあるとホッとして子供を作る家庭だったのでしょうか?何はともあれ、夫婦仲が宜しくて結構ですね。

因みに家は長男が早世し、次男が養子に出ていたので三男の広家が跡を継ぎました。この経緯はまた、関ヶ原以降で説明したいと思います。

元春の嫁取り(尚、周囲への相談はナシ)・後

さて驚いたのは熊谷信直です。なんせ娘に対して縁談の申し込みが来たのですから。それも因縁ある毛利家の次男・吉川元春です。

信直「少し訪ねたいのだが、貴公の父上が我が家と戦の際に熊谷の前当主を討ち取ったことは知っておられるかな?」

元春「もちろん承知の上です。ですがご息女を妻に迎えたいのです。お願いします」

信直「・・・・その、うちの娘の噂はご存知なのだろうか・・・?」

元春「もちろん存じ上げています。その上で妻に迎えさせて頂きたいのです」

熊谷「なんと有り難い・・・・!分かった、しかし一度お父上にもお話を通しておいた方がよかろう」

こういった経緯で元春の嫁取りは成功しました。しかしこれには元就も驚いたのか、詫び状を書いて「元春は犬のような子ですみません。よろしくお願いします」と改めてお願いしています。

その後、元春の策略通りに熊谷家は毛利家とともに戦国動乱を戦いました。確執は水に流し、一度も裏切ることなく元春と吉川、毛利家に尽くしてくれました。余程嬉しかったのか信直は臨終の際に息子たちに「元春殿に尽くすように」とまで言い残しましたといいます。

そしてここからが余談。

醜女と名高い妻を元春は非常に大切にして、生涯側室を置くこともしませんでした。二人の間には何人もの子を授かり、夫婦仲もとても良かったといいます。初めこそ打算がありましたが、それ以後奥さんを大事にした辺りがとてもいい話ですね。

吉川元春の嫁取り話。打算から始まった愛もある、といったところでしょうか。

元春の嫁取り(尚、周囲への相談はナシ)・中

その頃、熊谷家でもその娘のことが大問題になっていました。熊谷信直は子煩悩でもあったとも言われていますが、この娘の行く先を心配していました。娘も年頃、そろそろ嫁にやるなり婿を取るなりしたいところですが、相手がいない。親の欲目もあるかもしれないが、器量はそこそこいい筈だ、しかし・・・・。

この娘、実はとんでもなく醜女だったのです。言ってしまえばブスだったのです。それも近隣諸国に有名だったとまで言われているのだから色々と酷すぎます。この時代の娘は同盟国を作るための存在、嫁の行き先がないとなると困った時に頼る相手ができない。いやいや、子煩悩だった信直から見れば修女と噂されて嫁にも行けない娘がどれほど可哀想だったことでしょうか。

元春が熊谷家とその娘に目をつけた最大の理由がここであったと言われています。よく直情的で戦一辺倒のような人物だと思われていますが、元春は文芸にも明るい頭の切れる人物なのです。

元春は熊谷家が抱えている問題の娘を嫁に貰ってやることで、熊谷家が恩義を感じて自分や毛利家に尽くして働いてくれるのでは、と思い立ったのです。少々打算が過ぎるかもしれませんが、ここは戦国、政略結婚などよくある事です。

こうして元春は父親の元就にも相談なしに熊谷家に単身乗り込んだのでした。

 

 

元春の嫁取り(尚、周囲への相談はナシ)・前

さて吉川家へ養子に出されることになった元春。その背後には色々な大人たちの思惑が絡んでいましたが、元春はあることを考えていました。

嫁取りです。

戦国時代にお嫁さんはとても重要です。もしかしたら先に母親を亡くし嘆きまくる父・元就に触発されたのかもしれませんが、ともあれ年頃ですし嫁さんを貰うことにしました。周囲には特に相談もせずに。

だからといって手当たり次第に嫁を貰うわけにはいきません。毛利家と吉川家を盛り立てるようなお嫁さんが必要です。

「そういえばあの口うるさい(元春は五龍局とあまり仲が宜しくなかったようです)姉は敵対してた宍戸家に嫁に行って、その後毛利家と宍戸家は仲が良くなったな。しかも宍戸の義兄上も父上や兄上を助けてくれて信頼されてるし。そうだ、俺も前から敵対してて強い家の娘を嫁さんに貰おう!」

さてそんな家が一体どこに・・・いえ、ありました。熊谷家です。

熊谷家の当主・熊谷信直は豪傑で有名で、尚且つ嘗ては毛利家と敵対していた関係です。それもその筈、熊谷家の先代当主は安芸守護職武田家と共に毛利元就と戦って討ち死にしていました。しかしそれは過去の話、この頃は毛利近辺の土地は落ち着いてきていますし、上手く頼み込めば話がまとまるかもしれません。相手も娘の嫁入り先を探していることでしょう。

なぜならこの娘、大きな問題があったのです。