大内晴持の死と心の傷・3

尼子軍に敗れてしまった大内軍は命からがら撤退していきます。しかしこの撤退の最中、運の悪いことに晴持は義隆とはぐれてしまいました。

さてこの大内軍の撤退は船に乗って行われました。義隆の乗った船は武将として名をはせた冷泉隆豊が乗っており、彼が薙刀を振り回し船にしがみつく兵士の腕をなぎ払っていったとあります。こうして義隆は無事生還を果たすのですが一方晴持の船はというと・・・なんと 船に乗って逃げる時に、後から後から味方の兵士が詰め掛け船が転覆し沈んでしまいました。この時甲冑を着ていた晴持はその重みで溺死してしまったのです。一説には一旦は蘇生するも、やはり間も無く死んでしまったとあります。

義隆は初陣で死んだこの世継の死を嘆き悲しんで、晴持を供養する時に足利義晴に頼み今度は「義」の字 を与えて、再び「大内義房」と改名させてして供養しました。 死んだ養子に将軍の偏諱を与えたのです。此処までするに当たって、義隆がどれほど晴持を可愛がっていたか伺い知れますね・・・。

その後、晴持の死が堪えたのか義隆は政治を評定衆と呼ばれる家臣団に委ね、大内家は次第に衰退していってしまいます。 晴持の死は義隆の人間性を変え、その後の大内家の命運を大きく変えてしまったのという事です。

大内晴持の死と心の傷・2

さて跡継ぎの男子のいない伯父の養子に行った晴持。晴持は分家とはいえ公家の名門一条家の血筋であったこともあって、とても義隆から可愛がられたといいます。一条家の子であった晴持は、当時一条恒持という名前だったのですが、義隆はその養子のために将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を受け「大内晴持」に改名させました。この事からも義隆がこの養子をどれほど可愛がっていたかが理解できるかと思います。

さて養子に取られて可愛がられた晴持、彼自身もよくそれに答えて、文武に秀で大内家必須教養の和歌も身に付けるなどして、いわゆるエリートに育っていきました。

このまま終わればいい話なのですが、それでは逸話としては残りません。(もしかしたらいい話として残ったかもしれないが)

さて天文11年、晴持18才の時に悲劇が訪れます。大内義隆が1万5千の兵を率いて、尼子討伐に向かうことになりました。この戦に晴持も一緒に出陣しました。おそらくこの戦、当時の日本最動員とも思われています。常識で考えて敗北は無かったのでしょう。だからこそこの戦を義隆は晴持の初陣として選んだようなのですが・・・。

ご存知の通りこの戦で大内家はまさかの敗北、撤退を行う事になります。

大内晴持の死と心の傷・1

さて大内義隆が養子として溺愛し、その死によって心に深いトラウマを負ってしまう事になった大内晴持の死の顛末と、その生まれを説明していきましょう。

大内晴持は大永4年、1524年に土佐一条家に次男として産まれました。父は一条房冬。母は側室で大内義隆の姉でした。要するに義隆にとっては実の甥ともなりますね(房冬の父・房家の四男説があるとか聞きますがややこしくなるので割愛)

さて、兄の房基の母親は皇族伏見宮邦高親王の娘でした。要するに晴持はどう転んでも当主にはなれません。血筋の格が違います。この時代の次男三男というものは家を継ぐ事になる嫡男との違いは目に見えて明らかで、晴持も一生冷や飯を食い兄の奴隷となるかどこかに養子に飛ばされてしまうくらいの運命だったでしょう。。

しかしちょうどその頃、母方の実家・大内家には跡継ぎがいませんでした。この頃の大内家は当時の西日本屈指の勢力を持ちあちこちで戦をする武闘派であり、勘合貿易でガッポリ稼いでいて代々海賊との黒い交友があったり、金の力で冠位をもぎ取るタイトル王でニート公家の保護活動を行なってたり、某王族の末裔を称したり、とマルチな活躍をしていました。

そして晴持はこの大内家に跡継ぎとして養子に行く事になったのです。

正にシンデレラストーリーでしょう。その顛末さえ見なければ・・・

尼子攻めと負った心の傷

さて大内義隆の敵は目下尼子勢のみとなりました。当時尼子家は嫡男・政久を失って家中が揉めていた頃です。

さてまずは1540年、出雲の尼子晴久が安芸に侵攻してくると傘下の領主代表だった安芸の毛利元就に援軍を派遣し、大内家と毛利家は尼子家を退けました。翌年には武田信実を滅ぼして安芸の支配権を確立しました。この頃はまだ問題ではなかったのですが・・・・。

問題の1542年。この年、謀聖と謳われた尼子経久が逝去した事で、尼子家臣が大内家に離反してきました。嘉隆はこれを尼子家を滅ぼす絶好の機会と捉え、自ら出雲に遠征します。これが大内家の命運を分ける事となりました。

義隆は、弱体化した尼子家を倒す程度なら大内軍の主力を動員する必要はないと考えていました。そのため、安芸や石見の国人領主を中心とした連合軍を結成して出雲に侵攻しました。 だけれど尼子軍の新宮党の予想以上の抵抗と、長期にわたる派兵によって領主達の不満は募っており、ついには寝返りや逃亡が頻発。大内軍は総崩れとなって遠征は失敗に終わります。その上この時養嗣子として従軍していた大内晴持が事故死した事で、義隆は心に深い傷を負ったのかますます戦嫌いとなって、以後は戦場に出向くことはなくなったといいます。

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