有田合戦の開幕

1515年、京都から帰国した武田元繁は、大内氏の主力が不在の今こそが武田家の旧安芸守護職の権威を取り戻し、大内氏の従属から逃れる好機と見て行動を開始します。取り始め大内義興から監視の役目のように貰った妻と離縁。尼子経久の弟・久幸の娘と結婚して尼子家と手を結び、大内家から独立しようとしました。

これと同時に元繁は大内氏勢力内への進行も開始。元繁は内乱の続いていた厳島神社の神領を接収し、城兵の逃亡した大野河内城を取得しました。元繁はこの後に己斐城を攻めましたが、こちらは数ヶ月の包囲によっても落ちずにいました。

一方の大内義興は、武田方山県氏の一族である壬生氏・有田氏・今田氏を牽制するために山県郡有田への出陣を毛利興元と吉川元経に命じました。有田城を落とされたことで元繁は己斐城の包囲を解き、その矛先を北、山県郡の大内側の諸城へと向け始めます。

そんな中、毛利家の当主であった興元が1516年8月に死去し、わずか2歳の幸松丸が当主となりました。叔父であった毛利元就が後見役となるが、元就もこの時は20歳。毛利家家中は動揺し始めます。これに「項羽」元繁は動き始めます。

この時旧守護の武田氏の権威と「項羽」と謳われた武将・武田元繁を相手にするのは、小勢力の毛利氏や吉川氏に加えて、若年の元就では無理だろうと思われていました。その上主家の大内氏は主力を京都に引き連れていっているので援軍の派遣も望めない状況。誰もが元繁の勝利だろうと予測していました。

新着

有田中井手の戦いまでの経緯

今回は有田中井手の戦いに至るまでの経緯から見ていきましょう。

それは1508年の事。大内義興は足利義植を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従って上洛しました。一方、在京していた若狭武田氏当主であった武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持していました。この辺りから、既に嫌な予感が漂っていますが…これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなります。上洛した義興は義稙を将軍職に復帰させると、自身も管領代として京都に留まったのは皆さんご存知ですね。元繁もこれに従い駐留を続けていましたが、大内氏当主と主力が不在の安芸国では厳島神主家で後継者を巡って内輪もめが発生していました。

これに不安を感じた義興は、1515年にこの内部の乱れ鎮圧のために元繁を帰国させることを決定しました。しかし義興もまた元繁に不安を感じていたのかもしれません。この時義興は、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせています。おそらく、元繁の離反を防ぐためだったのでしょう。

しかし不安は的中、元繁は帰国後すぐに妻を離縁して、尼子経久の弟・尼子久幸の娘を妻として大内氏に反旗を翻します。元繁が尼子方から支援を受けたのも、こんな経緯があってこそなのです。

 

新着

中国地方の項羽

さて前回名前が出た武田元繁について説明していきましょう。その前に、中国の有名な武人である覇王・項羽をご存知ですか?項羽と劉邦でも有名なあの項羽は、智勇に優れた武将でありながらややカリスマ性に欠けたという評価を受けています。しかしその智勇の優れ方は並大抵のものではなく、「覇王」と呼ばれた所以のある人物です。

そして武田元繁もまた、この項羽に並ぶ人物という評価を受けています。(中国地方と中国大陸の違いがありますが…)

その元繁は武田元網の子であり、父・元網は安芸の守護代的立場であり、佐東郡・山県郡・安南郡を治めていました。

1493年、明応の政変が起きて管領・細川政元により室町幕府10代将軍・足利義植が追放され、新しい将軍として足利義澄が擁立されました。京都を逐われた義植は数年間の流浪の後大内義興を頼って山口に下向。この混乱に乗じて義興は武田領へ侵攻を開始したのです。さらに悪い事は重なるもので、1499年には家臣だった温品国親が離反して武田家中は大混乱となりました。毛利氏の支援等も受けた武田家臣の熊谷膳直の働きで国親の反乱は鎮圧されたものの、安芸武田氏はその後、大内氏に服属を余儀なくされました。武田家もまた、苦渋の判断を強いられたのでしょう。

その後1505年に父・元綱が病死した後、元繁は後を継ぎました。この経緯を見ると、元繁はいつか大内氏から独立を果たそうと思っていたのかもしれませんね。

 

 

後継者・大内義隆

さて京で色々あったり外国で色々あったりしながらも大内家を盛り立てていった大内義興も最後には病に勝てなかったのか病死する事となります。享年52歳、その後継者は嫡男の大内義隆、当時彼は22歳でした。

室町以降の大内氏は家督争いの兄弟喧嘩が頻発していて当主が死ぬと内乱が恒例行事となっていたのですが、この義興から義隆への場合は例外といわんばかりに、家督継承はスムーズに行われました。しかし逆に、この穏便な政権委譲が義隆の文人大名化に拍車を掛けることになってしまうのです・・・。

さてここで大内義隆と言う人物を少しご紹介しましょう。義隆は大内義興と正室・内藤弘矩の娘の間に嫡男として生まれました。しかし生まれる直前に父・義興が明応の政変で将軍を追われた10代将軍義稙を奉じて上洛しています。この後、義興は長年京の都に逗留する事になってしまうので、義隆は長年父を知らず育っていってしまいます。

さて父親が戻ってきたのは義隆が10歳になった時。しかし長年父の薫陶を知らず、ぬくぬくと育ってしまった義隆は文弱な当主になってしまいます。

義興が京の都に逗留してしまった事で尼子家や毛利家が後に台頭してきてしまうのですが、何より息子の養育に自身が関われなかったのが大きいですね。人の家に一生懸命になって我が家を犠牲にしてしまった所は、何だか現代に少し通じる者があるかもしれません。

新着

寧波の乱・後

宗設と大内家の者達は突如、細川方の船を襲撃しました。この襲撃により鸞岡端佐は討ち殺されてしまいました。この時、運が悪かったのか判断が悪かったのかそれとも人が良すぎたのか、明の官吏が細川方を助けて抵抗してしまったのです。

この抵抗が火に油を注ぐ結果となってしまったのか、宗設はさらに寧波の港を焼き討ち、さらに紹興城へ逃れた宋素卿を追いかけて行き、そこで止めに入ったのか明の役人まで殺すなどやりたい放題に暴れまわりました。こうして大陸で暴れ舞った後、彼らは溜飲が下がったのか悠々と日本へと帰っていきました。

さて、哀れなのは細川方の副使・宋素卿です(巻き込まれた人達も十分に可哀想ですが)。大内方の手から逃げ切ったのはいいものの、明の政府はこの騒動の責任を彼に取らせる事にし、栄素卿は投獄されたのち、獄死します。

この後、この事件は明と日本の深刻な外交問題となってしまい(まぁそりゃそうですね)、日明貿易の停滞から倭寇が活発化する原因になったりもするのですが・・・・。

ともかくも、海外でも自重しない戦国武士の現地の人には大変迷惑なお話でした。武士は面子を大事にするとは分かっていても、少々過激すぎる気がしますね。

寧波の乱・前

大内義興が細川高国と不仲となり、その他色々の事情があって京から帰国するに至ったという話は以前にも紹介したかと思います。今回はその不仲が興したとある乱についてご説明していきましょう。

日本での年号は大永3年、明の年号では嘉靖2年。大内義興は明の寧波に謙道宗設を正史とした遣明船を派遣しました。この時、幕府管領細川高国も鸞岡端佐を正使、日本に帰化した中国人である宋素卿(朱縞)を副使として寧波に遣明船を派遣していました。

大内家と細川家は古来より貿易利権をめぐって伝統的に仲が悪いのですが、この時は特に、大内義興の京から山口への帰国による細川高国政権からの離脱で、特に関係が悪化していた時です。

寧波には大内家の船が先に入港していました。この頃の慣習として、先に入港した船から入港検査が行われます。ですが細川側は明の担当官吏に賄賂を渡し、これにより細川の船から先に入港検査を始めました。

これも本来なら、穏やかに口頭での抗議などで済んだ話だったのかもしれません。が、時期が悪かったのです。大内家の者達はこれを細川家による大内への露骨な挑発と受け取りました。

皆さんはご存知でしょう。この時代の武士はこう言うとき、我慢はしないという事を。

大内義輿と村上水軍・後

さてこの平和な当時の人達にとって憧れの島、日本の武装した兵船が押し寄せるとすぐに通詞を出して和を請い日本に服すことを約束しました。このため何事も起こらずこの遠征は終わったのだですが、これには理由があります。

この当時の日本船というものは外国船に行き当たればそれに押し寄せ攻め立て、資財を出させてそれを奪い取り、嫌だというものには攻め懸けて船を乗っ取って・・・最早海賊ですねこれは。

まぁ当時の日本船と言うものは大体がこんなものであったので、異邦人でも日本の兵船の言うことを聞かない、という者は殆どおらず、海上において日本船に行き会うことを恐れない船はなかった、とあります。そのためにこの島も、あえて日本船と戦おうとはしなかったのではないでしょうか。誰しも平和を脅かされたくはないものです。あれその島を平和だから帰りたくないってなんて矛盾

話を無理に変えるようですがこの頃の日本船、皆八幡宮の文字を書いて旗印としていました。このため異邦人の人々は、日本船をさして八幡船と言うようになったそうです。

大内義興の命による瀬戸内水軍の連合軍によってなされた、とある島への遠征についてのお話。もちろん皆さま、この当時の瀬戸内水軍を村上水軍と呼ぶのはご存知ですね。

宮島踊り

さてこれは大内義輿が上洛する前の頃、安芸の厳島神社の祭礼にやってきた時の話。

祭礼に来ていた参加者達は酒を飲んだらしい。お祭りに酒はつきものですからまぁそれはいいのですが、度を越してしまうとロクな事にならないのは今も昔も一緒です。

彼らは酔った勢いで神社で行われている神事に対して悪口を言い始めました暴れ出しました。これに怒った厳島神主支配下の神領衆、暴れてた人々を十人ほど殺してその船を沈めました。何とも過激な事です。神社の勢力なのに

さてこの殺された人たちの中に伊予の豪族であった多賀江氏の郎党も含まれていたのが悲運の始まり。郎党が殺された事に面子を潰されたと思ったのか、多賀江氏の勢力160~170隻の船が厳島を襲い、島に上陸して火を点けて回るなど暴れ放題を尽くしました。これじゃヤクザの抗争だ

すると、神の思し召しか奇跡的なタイミングで風雨が強くなってきました。船に強い風雨はご法度、多賀江氏の勇士として知られた多賀江兵部小輔は神社に軽く拝礼して船に乗り、神社の鳥居の前まで漕ぎ出していき、

 
船が沈没し24人の郎党と一緒に海中に消えてしまいました。

(ついでにその後来た多賀江氏の親戚である重見氏の船も沈みました)

その後、死んだ多賀江兵部達は悪霊となって厳島の住民を苦しめたのでその霊を慰めるために念仏踊りを始めたといいます。これが、現代にも伝わる宮島踊りです。

味方同士での抗争で死者まで出た上、悪霊にまで出てきたというお話。皆さんも酒の席での失言暴挙にはお気を付け下さい。

大内義興、もてなす・後

さてさてまだまだ続く大内義興の将軍歓待料理。続きからいってみよー!

十献 大根、蒸し麦、御添え物羽しきうずら

十一献 刺身ぶり、鮎の煎物、はまぐり

十二献 いわたけ、うんせんかり、御添え物かき

十三献 つべた、やまぶき煎、くるくる(鰤のはらわた)

十四献 鳥の足、海老羹、御添え物ふりこ

十五献 さしくらげ、エイの煎り物、まて

十六献 はる、羽ようかん、御添え物ほや

十七献 小串さし雁、雪魚の煎り物、からすみ

十八献 刺身こち、海苔からみ、いいだこ

十九献 こがし海老、つまかさね、羽ふしあえ

廿献 ほろす、寸金羹、御添え物こごり煮鮒

廿一献 刺身はまち、鴨の煎り物、はらこ

廿二献 さわらのせんばん焼き、あかほご(カサゴ)煎り物、たちばな焼

廿三献 い貝、ぶりの煎物、けづり塩引

廿四献 もみさざえ、つぐみ煎物

廿五献 刺身名吉(ぼら)、ほっけ煎物、しとと焼

これにて終了!

何とこれで一回の宴会分です。大内義興が義稙をどれだけ歓迎していたか、重要視していた人物だったか伝わってきますね。しかしメニューを文字で見ているだけでも、この現代においても中々美味しそうなものが揃っていますね。

それでもこの量は多いと思うのですが・・・いやはや、食べきれないほど出すのも歓迎している証拠とは言いますが、これはやりすぎでは?と思ってしまいますね。皆さんは食べ過ぎには注意して下さいね!

大内義興、もてなす・前

さて大内義興が明応の政変で失脚した前将軍、足利義稙が明応九年に大内義興を頼って山口へと亡命してきた事は何度も書きましたね。義興は将軍が自分を頼って来てくれた事を喜んだのか、大歓迎をして丁重にもてなしました。さてその義興が どれほど喜んだか。義稙を屋敷に迎えた際の歓迎の宴会でのメニューから見てみましょう。

初献  きそく(串物)、雑煮五種

二献  刺身、鯉子付、ひしくいの皮煎り、えび船盛り

三献  ちじみ鮑、鯉のいりもの、たこ

供御(お勧め料理)  鯉の焼き物、塩引、せわた、鮒なます

供御  塩、かどのもの(数の子)、干鯛、子うるか

二御台  鳥の焼き物、鮭の焼き物、刺身鯛、御汁

三御台  大かまぼこ、雁の皮煎り、貝あわび、御湯、たこ味噌焼き

四御台  こごり、しろうお、雁の焼き物、御汁、くらげ、ほや

五御台  鮒焼ひたし、御汁いるか、ふと煮

御菓子  まつき、けづり栗、昆布、みかん、ところ(山芋の一種)、あめ、串柿、くるみ、のり

四献  小かまぼこ、鮒丸いりめ入、サザエ盛りこぼし、

五献 つのまた、三方せん、御添え物鵠(コウノトリ)生鳥

六献 刺身鱸、ひしお煎、あわび

七献  とっさか、まんじゅう、御添え物がざめ(わたりがに)甲盛

八献  小串さし鯛、はらか(鱒)の煎物、かせ(紫ウニ)

九献  ゆでにし、鶴煎物、かどの子(数の子)

えー既にお腹いっぱいになりそうですが、まだ歓待料理は続きます。