大内義隆と村上水軍・前

中国地方と言えば有名なのが村上水軍。大内義輿の時代にも村上水軍の話が出て来ます。

それは永正9年、1512年頃の事の事だそうな。

讃岐の寒川氏は大内義興の命により兵卒を揃え引田の浦にて五艘の軍船を整えました。そこに同じく讃岐の香西氏、安富氏の軍船が集合し、計二〇艘となって引田の浦を出航、備後の鞆に到着すると伊予の能島に報告、能島、因島の村上氏と合流すると、瀬戸内を拔け南洋、中国南部方面へと進んでいきます。中々の大船団ですね。

さて、このような船団が組まれたことにはこんな理由があります。この少し前に、能島村上氏より大内義興に提言がありました。

「南洋にある離島があります。これを得れば和漢の交易路を保持するのに、長く日本の利益となるでしょう。」

寒川家の記録にはその島の名は書かれていないものの、どのような島かは記載があります。

島の主は元々明国は浦東(今の上海?)の領主であり、明から大船を招き日本と中国との中間交易の地として大いに栄え、住民達は互いに親しむこと親友以上であり、その島はまるで一国の首都のような賑わいだ、とのこと。

島に行った日本人の中には自らの国が乱世であり一夜の安眠すら困難なのに比べ、この島には争いもなく皆安楽に暮らしていることに感激し、帰国を嫌がるものも多かったといいます。戦国の世と言えど、平和に暮らしたいという思いは皆あったのでしょうね。

時の権力者達とソテツ

今回の逸話は大内義興が将軍から「義興」の名前を授与された時のことです。

足利義尚の側近の有力者である金閣寺の主である亀泉集証が山口に赴いてきました。彼は大内氏館の庭で見たことのない木を目にして、物欲しげに眺めていました。あまりに気にしている様子なので義興は

「朝鮮から取り寄せたソテツというものです。上様が欲しいのなら献上しましょう」

と気を使ったのですが、これに彼は

「御所にもソテツくらいある。あまりに立派なので見入っていた」

と固辞しました。しかしこの後、院主の残した蔭涼軒日録に何度もソテツのことが記されている所を見ると、相当後々まで引きずっていたのではないでしょうか。意地を張ってしまったんですかね。そう思うと何だか可愛いようなめんどくさいような・・・。

さて実は当時ソテツは宮崎や鹿児島にはいっぱい自生していて珍しいものでもなく、朝鮮から取り寄せずとも硫黄取引のあった島津氏から容易に調達できたのです。しかし京都人には珍しいものであることを見越したうえで、献上品として箔をつけるために義興は朝鮮から取り寄せたという話をしたのでした。

ここで少し別のソテツの話もご紹介。

堺の妙国寺のソテツを織田信長が安土に移すと泣くので切りつけたら血が吹き出た、というちょっとおどろおどろしい逸話などもあるソテツ。

が、豊臣秀吉も徳川家康もソテツに興味を持ちわざわざ遠方から取り寄せています。なぜか権力者達が気に入って遠方に移されたソテツは現在国の天然記念物に指定されています。ソテツには時の権力者達を魅了する何かを持っていたのでしょうか?

九州在住な私にとってはあまりソテツは物珍しくも無いのですが・・・うーん、それとも手に入りにくいものほど欲しくなるという心理なのですかね。そんなソテツと権力者たちのお話です。

自領に持ち込んでしまった不和・3

義興に従って山口に向かう最中で、名を変えていく公家達。この光景、実はこの行列中では何度も繰り返された光景でした。都落ちの公家はこの松原某ばかりではなく、何人もの少なからぬ公家が大内義興の都落ちに同行し、そのまま周防長門の地で在地化、武士化して、大内義興、義隆の近臣を形成してしまったのです。後年、太寧寺で大内義隆に殉死した近臣の中に、譜代には見えぬ名前が多くあるのはそういう理由もあるのだとか。

相良武任だけならばまだしも、蹴鞠や和歌しか知らぬような公家崩れの側近が主君・大内義隆の周囲を固めている。譜代の家臣である陶隆房や内藤興盛らの心中如何であっただろうか・・・・後年残ってしまった大寧寺の変の理由も、この事が原因だったのでは、と言われています。

歌や蹴鞠では国は保てない、ましてや一門譜代をおろそかにしては・・・。

知らずと我が子我が家の災いを自ら持ち込んでしまった、そんな話です。

 

さて、実は義輿の帰国にはもう一つの逸話があります。

義興が在京していた頃、京で彼が密通していた女への恋文を侍女がよりにもよって、当時京に上がってきていた彼の北の方に届けてしまいました。北の方は勿論これに激怒、義興を追求します。それに窮して義興は、彼女をなだめるために帰国する事になったのでした。

実際、大寧寺の変も義隆の色恋沙汰がややこしい事になって戦に発展した、という説があるので此方も大内の行く末を暗示している話かもしれませんね(笑)

自領に持ち込んでしまった不和・2

そして永正十五年。高国との不和だけでなく、長らく留守にしていた事で自国領内が尼子氏をはじめとする周辺敵対勢力に狙われ始めます。自領が脅かされている事、悪化していく京での立場、これにより義興はついに帰国の途に着きます。

この時、自領山口を目指して山陽道を進む大内勢の中には数万の武家のほか、本来都に在って帝に侍るべき公家衆が加わっていました。十年に渡る大内軍の畿内駐留の間に、義興と親しくなったその公家達は暮らしの厳しい都を離れて、大内勢に従って一路山口目指して旅立ったのです。さて小松原という土地に差し掛かったところで、義興はその地下人の公家にこう告げました。

「山口に来るとなれば、姓を考えねばならないだろう。丁度この土地は小松原、新たにつける苗字には余りよき漢字ではないな・・・・そうだ、そこもとは今日より松原某を名乗るがよいであろう」

この公家は藤原某を名乗っていましたが、都を落ち、周防の地からもう還らぬ覚悟であるなら姓も変えたほうがよいだろう、そんな話の成り行きからの会話でした。都落ちの公家に否を告げる術はありません。かくして大内家の家臣団の末席に、新たに松原某という公家崩れの武士が加わった瞬間でした。

自領に持ち込んでしまった不和・1

さて時はまた流れ永正四年。当時の管領細川政元が家督を巡る養子間の抗争の煽りで暗殺されました。いわゆる永正の錯乱ですが、これが大内家のその後の進退に非常に影響してきたとも言われてます。

養子の一人で暗殺の首謀者である細川澄之は、程なく澄元との抗争に敗北して自害しましたが、今度はその澄元と、澄之打倒までは澄元を支持していたもう一人の養子、高国が対立します。この高国が西国の雄と言われた大内義興と結んでその軍を山城に引き入れ、以後約十年にわたって畿内に大内軍が駐留することになったのです。

この時、見事上洛を果たした義興は、保護していた足利義稙を将軍職に復帰させて、自らも左京大夫(京兆)・管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になりました。また軍功を賞され山城守護も与えられました。

しかしその後も一時的に逃走した細川澄元らの幾内への侵攻は何度も行われ、最初の内は義輿と高国は敗北を重ね、防戦に追い込まれます。しかしその後見事澄元らを破り、京都の土地を取り戻したのです。この件を将軍に賞されてそれから長い間京に留まるようになりますが、その後、義輿と高国は段々と不和になっていきます。

そして義輿は京の地を離れ自国に帰る事になります。