毛利両川体制

さて吉川元春の話が続きましたが父親である毛利元就に話を戻しましょう。策謀を重ねて、次男・元春に吉川家を継がせることに成功した元就。その一方で小早川家の相続問題で、当主・小早川繁平がまだ幼いこと、盲目であったことを理由に繁平を出家させるなどして三男・隆景に小早川家を継がせるように取り計らいます。

これにより元就は小早川氏の水軍を手に入れ、また以後に「毛利両川体制」と呼ばれる毛利家の補佐体制を確立、そして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏両家の勢力を取り込んだことによって、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしたのでした。さあ、毛利家はこれからどんどんとその勢いを増していきます。

しかし天文18年2月、元春と隆景を伴い山口へ下向しました。この時元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くまで伸びて、吉田に帰国したのは5月になってからでした。この頃の山口大内家は、主君の大内義隆の戦嫌いが加速し、陶晴賢ら武断派と文治派の対立が激しくなっていましたので、元就も病床の床にありながらも大内家の行く末を懸念していたのかもしれません・・・・。

因みにこの時元就を看病した井上光俊は元就への献身的な看病を感謝され、嫡男・隆元からお礼の書状を貰っています。この事が彼の身を助ける結果となるのは、また後日です。

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聡明だった徳寿丸

さて望まれて小早川家へ養子に行くことになった徳寿丸。ここからは元服した時の名前、よく知られている小早川隆景の名前で表記しましょうか。この小早川隆景は聡明な人物で有名ですが、その聡明さは幼い頃から人より抜きん出ていたようです。今回はその逸話をご紹介しましょう。

隆景は13歳で人質として大内氏に行き、そこで人質として三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告したといいます。

「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。なぜならば大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶晴賢は諌言を尽くして、ついには義隆の意に反するようになりました。そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、晴賢を讒言しました。なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、晴賢に心を寄せる者が多くなっています。主君が晴賢を疎んじ、家臣一同が晴賢に帰服しているような状況ですから、陶が兵をあげるのは時間の問題でしょう。」

元就はこれを聞いて息子の言葉に深く頷いたといいます。この後は隆景の言った通りのようになるのですが、朝鮮出兵のことといい隆景には先を見通す力でもあったのでしょうかと言いたくなりますね。

小早川隆景、幼い頃から聡明だったことがわかる逸話です。

戦国の異名と、魔王・3

さて歴史に戻りましょう。ここから魔王・武田光和の生涯をざっくりながらも追っていきます。

1523年、尼子経久が安芸中部の鏡山城を落とした事で安芸の大半は大内から尼子の勢力下となりました。そしてその翌1524年、大内義興は安芸を取り戻すべく経久が伯耆に出兵した隙に安芸西部の桜尾城、そして武田光和の居城、佐東銀山城に出兵します。

佐東銀山城を囲むは大内家の柱石・陶興房とこの戦が初陣の大内義隆、そして彼らが率いる兵は1万5千。光和が率いる篭城軍は3千・・・この時点で五倍近い兵力差です。

しかし6月25日の緒戦では援兵として来た熊谷・香川の兵千余りが敵の抜け駆けを察知して大内方の杉・問田氏率いる千5百余りを撃退。それから7月に入り光和率いる篭城軍3千は何度か大内側と合戦を行いました。その中先陣に立って奮戦した人物こそ、城主・武田光和その人です。

自らの武勇を頼みに大内方の兵を斃す光和。しかし当然その話は大内方にも知られ、ならば何とか討ち捕ってしまえと作戦が立てられます。中国地方で敵無しと評判の豪傑・若杉四郎三郎と、やはり大力で知られたその弟、または大黒新允と言う大力の者や大内義隆の近習で打物達者と言われた者を加えて、彼ら4人が囲んで光和を斃す作戦が立てられました。

さて光和はどうなってしまうのか?

陶晴賢の誅書・後

しかし晴賢が渡した誅書を読んだ義隆は激怒しました。義隆曰く、

「世が乱れた時には武を用い、世が治まる時は文を用いる、これこそが聖人の道である!それに武官を重用せよというのは、かえって乱を起こす元であり、こんな事を言い出す人間は痴者と呼ぶべきだ!」

と言って晴賢を侮辱しました。もちろんこの侮辱は晴賢の耳へ届き、晴賢もまた激怒する事になります。そしてやってきたのは大寧寺の変。陶の謀反です。

この時武断派の者達の多くは前々から義隆に恨みを持っていたので隆房の味方をして、義隆の周りにいて詩文を作っていた歌詠み達は、一戦も交えることなく皆逃げてしまいました。結局、義隆はまともな抵抗も出来ず晴賢に国を取られてしまう事になったのです。

平時に武を捨て驕れば、大事が起こった時防げなくなる。「戦いを忘れた時は必ず危うい」と古人がおっしゃったのはまさにこの事である。

この話はこう結ばれていますが、正にその通りですね。義隆の言う事も分かりますが、時代は戦国乱世の世ですからね。余りにも時代を見間違えているとしか言いようがありません。この当時の義隆の戦嫌いは酷いものですし、世の無常を嘆いていたのかもしれませんが・・・この結果は知るべくして起きた事でしょう。

ともあれ陶晴賢の主への誅書、という逸話です。この時の陶さんは時代が分かっている人物っぽいんだけどなぁ

陶晴賢の諌書・前

聊か評判の良くない逸話を紹介してしまった陶晴賢ですが、空気を変える為に今回はまだ大内義隆在命時の逸話を一つご紹介しましょう。

晩年の大内義隆は学問や詩歌の良く出来る者、行儀の良い者、そして美形の者に多く知行を与えてばかりいて、逆に武勇の者には立身の機会がなくそれを恨みに思う者が多くいました。戦の役に立たない連中ばかりが取り立てられることを苦々しく思っていた陶晴賢は、書状にて主君を諌める事にしました。

『およそ、武士が主君に奉公する場合は八つの役があると言います。一に使役、二に番役、三に供役、四に賄役、五に普請役、六に頭役、七に奉行役、そして八に軍陣役。この八つを良く勤め、そして優れた人間に的確に恩賞を与える事こそ大将たる者の器量というものです。さてこの内七つの勤めの良し悪しを判断するのは、ごく簡単な事です。八つ目の軍陣役は、本音では惜しいはずの命を捨て、敵を退け国を守る最も大切な役です。それを良く成す者は、まさしく忠義の者であり、武家においては秘蔵すべきと言うほどの大切な人材であるのに、そう言う人々を無視しだた美しく風流な人々ばかりに大きな所領を与えるのは、武勇、智謀ある家臣たちの恨みを買うばかりではありませんか?一大事が起こった時、後悔しないよう、どうかお考えください』

やや武断よりの意見もありますが、戦国時代らしい誅書ですね。

とある少年

その昔、大内義隆公在命時の話です。

美人になりそうな娘を悪い虫がつかないように尼寺に入れて成長してからそばに置いた一方で(リアル光源氏)、美しい男の子も寵愛していた義隆がかなり熱を入れていた美少年がいました。その美少年の名は五郎。

義隆がどれくらいこの五郎に入れ込んだかと言うと、この五郎の住まいがある富田若山に夜な夜な通ったとまで言われるほどです。富田若山は現在の周南市、対して義隆が暮らす山口館は現在の山口市。この距離は当時では馬で五時間ほどだったとか。(正直その距離を通ったお馬さんに御苦労さまと言いたい)

さてある日のこと。義隆はいつものように富田に向かい、寺で五郎と逢引を重ねていましたが、夜がふけて朝に近づくと五郎が先に眠ってしまいました。義隆は自身の立場を顧みて眠ったままの五郎を置いて帰ることにしましたが、名残惜しいと思った義隆は和歌を読んで五郎に送ってその場を去りました。

やがてこの五郎も成長し、立派な若者となりました。彼は義隆の一字をもらって元服し、数多くの戦で活躍しました。しかしその十数年後、五郎は義隆に対して謀叛を決行して義隆を討つことになるのでした。

この五郎少年こそ陶晴賢です。晴賢がどれほど義隆に寵愛されていたか、そしてどれほど美少年だったのかわかる逸話ですね。

陶VS毛利

如何に密約があったとしても、流石にこの勝手な元就の独断を見かねた晴賢は、毛利家に詰問状を送ります。そして同時に吉見正頼討伐に協力するように要請するもしますが、これに晴賢は手痛いしっぺ返しを食らいます。その返書にはこのように記されていました。

「我が毛利家は、大内家先代・義隆公の代から安芸の裁定自由を認められています。それは晴賢殿も追認なさった筈です。今更毛利を抑えようとなされるのは明確な協定違反です」

この返答に 晴賢は大激怒。これから毛利家と陶家の関係は急速に悪化していきます。

但しこの手紙は毛利元就ではなく、嫡男の毛利隆元によるものだと言われています。山口で人質生活をしていた頃に隆元は、人質の身分でありながら大内義隆に大変深く愛され丁重な扱いをされたので、その恩ある義隆に謀反を起こして討った陶晴賢に対して深い恨みを抱いていた、という見解のようです。恩義ある相手を討った相手とは仲良くできないのは当然の事ですね。隆元人質中に父親の為に自害しようとした隆元を止めて窮地の元就に援軍を出してくれたのは陶晴賢じゃないかとかは言わない約束。

そして弘治元年、晴賢は2万の大軍を出陣させ、安芸に向かいました。陶家と毛利家の戦いが幕を開けます。

大内義隆と毛利家

さて中国地方の覇者といえば大内家、一時期猛威をふるった尼子家、そして何やかやでこの二つがいなくなってそして誰もいなくなった最後に残った毛利家が有名です。(宇喜多さんちはまた今度)

そんな毛利家ですが、嫡男の毛利隆元を大内家の人質に出してえらい可愛がられたり、その養女を正室に迎えたり、長男だけじゃなく三男までさしだしたりと(次男は返却されました)色々大内家と縁深かったものの、最後には間接的に陶晴賢の謀反に手を貸した毛利家。しかし、謀叛で死んだ大内義隆の扱いは非常に心配りが利いていたようです。

まず隆元が義隆の死を悼み、義隆と義隆に殉じた者を神と崇めるため竜福寺を建て義隆の絵を描かせてその地に飾らせました。次に息子の輝元が天正三年に義隆の二十五回忌法要、天正十一年には三十三回忌法要、慶長五年(関ヶ原の戦いのあった年)に五十回忌の法要を行っています。

なんとそしてその後も律儀に律儀に法要を行った毛利家。元禄十三年に百五十回忌、寛延三年に二百回忌、寛政十二年に二百五十回忌、嘉永三年に三百回忌・・・・明治時代になってからも毛利家による大内義隆追悼の念は変わらず、明治二十二年には古くなった寺を整備し新たに墓標を建て直した程です。

もしかしたら最初は人気取りや周りに毛利こそが大内の後継者である事を知らしめるために始めたかもしれないが、ここまで来るとなかなかできない事です。

皆さんもお世話になった方の法要などは欠かさないようにしましょうね。

 

築山館の怪異

山口にはかつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた築山館という館がありました。その庭園には「月見の松」なる名木があり、その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであったといいます。

さて、天文十五年。大内義隆公の御世のこと。この築山館の松の枝に掛かる秋月を肴に義隆が月見の宴を開いていたところ、館の塀の上に怪しげな影が一つ蠢いていました。これを怪しんだ義隆は急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じます。

命ぜられた武士・松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちました。この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したといいます。

だが常日頃になき妖怪の出没は周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせる事になります。そして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆は太寧寺に自刃に追い込まれ、件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのでした。

大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたのか。それは一体どちらが先だったのかは分からない逸話です。

 

大寧寺の井戸

さて今回は大内義隆の最期にまつわる逸話です。

皆様もうご存知の通り大寧寺の変で、大内義隆は寵臣であった陶晴賢らに謀反を起こされ、長年の重臣達にも見捨てられて義隆一行は北長門まで落ちのびて逃げました。ここで海路石見か九州へ逃れようとしたが、海が荒れて進めません。

進めないものは仕方が無いので陸路を15kmぐらい引き返し、三方が山、一方が川というちょっとした要塞のような立地になっている太寧寺に籠ることにしました。ここまで本当に色々あっていい加減疲れていた義隆は水を所望して、何気なく参道脇にある井戸を覗き込みました。

すると覗きこんだその水面にはあるべきものが映っていなかったのです。

 

 
「・・・・・・首が、ない」

これで精神的にも完全にやられてしまったのか義隆、腹を切る事にしたと言います。

さて後の参道改修の折にこの井戸は潰されましたが、今は境内の隅の方にこの時、兜を掛けたという兜掛けの岩と共に姿見の池として再現されています。もしここに行かれる機会があれば、湯治のついでにでも覗き込んでみては如何でしょうか。その時あるべきものが映っている事を祈りながら・・・・。

大内義隆の最期にまつわるとても縁起の悪い話でした。