おさいの方・後

正室を押しやって自らが上だと言わんばかりの傲慢な振る舞い、図々しくも親子揃っての贅沢三昧・・・・このような人物が好まれる訳がありません。特にこの時期は既に家臣達の心も義隆から離れています。大内家の中でもおさいの方の評判は最悪だったようです。

義隆の功績をまとめた「義隆記」ではなんと、彼女の生んだ義尊を「御曹司ハ実子ニテハヲハシマサヌト申セドモ証拠ハ更ニナカリケリ」と書き記しされたりもしています。真相は分かりませんが、おさいの方が嫌われていたのは事実でしょうね・・・・。陶晴賢が義隆を隠居させて義尊を新しい当主として立てる、という計画を曲げたのはこの風評があったからかもしれません。

さて大寧寺の変で義隆どころか、父・大宮伊治も殺されてしまうのですが、おさいの方は父親とは違って陶の謀叛を乗り切る事が出来たようです。義隆がおさいの方のために避難場所の寺を手配し、そこへ逃げるように説得したからだそうですが・・・その後、おさいの方はは墨で染めた衣と袈裟を纏い、故人の供養のために毎日念仏を唱えながら暮らしたそうであります。

前回でも書きましたが、人間調子に乗るとろくな事がない、という生きた見本のような人生ですね。

おさいの方・前

さて今回は大内義隆の側室であり、世継ぎを産んだおさいの方の話をしましょう。因みに前回の大宮伊治はおさいの方の父親です。

おさいの方は義隆の正室に仕えている身分でしたが、大層美しい娘であったためいつしか義隆に思われる身になったといいます。以前にも説明した、大内義隆の浮気相手へのラブレター事件での浮気相手はこのおさいの方だったと言われています。

こうして義隆の側室となったおさいの方は義隆の寵愛を一身に受けて嫡男・義尊を産みました。一方、結婚して二十年近くなる正室には義隆との子供がおらず、既に夫婦仲も最悪の状態になっていたので、正室の方もいい加減我慢の限界が来たのかとうとう離婚して実家のある京都へ帰ってしまいました。男とも女とも浮気し放題ですからね・・・無理もないかと思われます。寧ろ相当我慢した方じゃ・・・

さて大内義隆の正室はいなくなりました。ここで調子に乗ってしまったのか、おさいの方は自らが正室と言わんばかりの振る舞いを見せます。正室の方が住んでいた豪華な御殿に移り住んで、父親・大宮伊治同じく贅沢三昧でこの世の春を楽しでいたと言われています。ちょっと立場が上がると調子に乗る所親子だなこの二人・・・

良き事の後には悪い事がやって来る

さて今回はとある公家の話です。

いきなりですが公家の大宮伊治は金に困っていました。元々が中級公家なのでそれほど裕福でも無い上に、政敵であったの壬生家とのポスト争いに負けて官職を独占できなくなったのです。戦国時代は公家達が金に困っている話がいくつもあります。

さて貧窮していた伊治の元に一発逆転のとんでもない幸運が舞い込んできました。彼の娘が西国の王とも言える大内義隆の嫡男を産んだのです。本来、義隆には万里小路家から迎えた正室がありました。彼の娘はその正室に仕えていたのですが、その美しさから義隆の側室となっていました。しかし大宮の家では格が違いすぎる相手、どうなる事かと思っていたがその娘が寵愛されて世継ぎの母となった、つまり伊治は大内の外祖父となったのです。

この時代、公家が羽振りの良い武家を頼るのは珍しくありませんでした。まして伊治は別格のポジションについたのです。伊治は遠慮なく何度も山口に下向しては贅沢三昧を楽しみました。山口には他にも流れてきた公家がたくさんいましたが、例え家格が上でも山口では伊治のご機嫌を損ねることは出来ない状態でした。まさにこの世の春を謳歌する伊治。

こんな事をしていた伊治は陶方に恨まれ、大寧寺の変の際に真っ先に殺されてしまったそうです。良い事の後には悪い事が来るもの、しかしこの話は何より調子に乗ってしまった事が一番いけなかった、という話な気がしますね。

 

そして運命の変が起きる

政治を顧みなくなった当主に当然ながら家臣達の不満は募り、遂に大内家に、大内義隆に運命の時が来てしまいます。

天文20年、1551年の8月の末。義隆と険悪な関係にあった武断派の陶隆房が遂に謀反の兵を挙げました。このクーデターは重臣であった内藤興盛も黙認し、義隆を救援することはなかったといいます。知らぬ内に、これほどまでに家臣らの心は義隆から離れていたのです。

義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしますが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこで立て籠もりました。この時に義隆に従っていた重臣の冷泉隆豊が目覚ましい奮戦をしますが、所詮は多勢に無勢。最後は義隆はこの隆豊の介錯で自害しますた。享年45歳。

辞世の句は

討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観

と伝わっています。

その後、義隆の実子の大内義尊も9月2日に陶軍に捕らえられて殺害されました。この義隆・義尊の死により周防大内氏は事実上滅亡しました。またこの時、周防に滞在していた左大臣三条公頼をはじめとする多くの公家達も、この謀反に巻き込まれ殺害されたと言います。特に義隆の側室であったおさいの方の父・大宮伊治はこれまでの事もあって真っ先に殺害されたと言われています。

此処に、西の京を築いた大内家は滅んだのでした。この戦こそ、後の世で大寧寺の変と呼ばれる戦です。

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