小早川隆景、大胆にも

今回は陶晴賢と毛利家の戦いにおける、小早川隆景の大胆エピソードをご紹介します。

弘治元年(1555年)、陶晴賢は大軍を率いて毛利方の宮尾城を攻め落とそうとしてしていました。実はこの城は元就が晴賢をおびき出そうと厳島に建てた囮の城であり、彼の考えた策には絶対に必要な城でした。なので、

「必ず勝機はあるからなんとか三日持ちこたえてほしい」

と城を守る兵に伝えたい元就でしたが、連絡手段がありません。そこに進み出たのが三男・隆景。彼は

「小舟が一艘、陶方の船にまぎれて往来しております。おそらく鳩ヶ浦に暮らす漁夫でしょう。この漁夫を利用すれば城方と連絡がとれるかもしれません」

と言い、元就は隆景に任せることにしました。

隆景は漁夫の舟が陸に着くのを待ち、「何のために往来しているのか」と聞きました。漁夫は「戦があろうとなかろうと我らは漁をして魚を売らなければ生きていけません」と答えます。これを聞いた隆景は漁夫の魚を全て買い取り、そのほかに金を渡して宮尾城に運んでほしいと頼み込みました。

これを漁夫は承知し、隆景は家臣二人を連れて魚を入れる船底に潜り込み、息を殺して海を渡り無事に宮尾城にたどり着く事が出来ました。隆景の到着に宮尾城を守る兵士は大いに喜び「必ず援軍はあるから三日持ちこたえよ」という元就の言伝にたちまち士気を上げました。

その後、隆景はまた船底に隠れて城から脱出したそうです。

毛利家三男隆景の大胆な入城、脱出エピソードです。

兄の手紙を読んで、弟(二番目)

さて前にまるで遺書のようなネガティブさを感じさせる手紙を書いた毛利隆元についての逸話を紹介しました際に、弟、小早川隆景の反応があると書きましたのでここでご紹介しましょう。兄の死後「あの手紙」を読んだ、小早川隆景からの書状です。

小早川隆景書状

書簡を拝見致しました。常栄(隆元)の書き置き数通を読みましたが、誠に是非に及ばぬ次第であります。これ程までに思い詰めていたとは、言うべき言葉もありません。おおよそ全ての事は紙面から伝わりましたので、更に論ずるまでもありません。

今世、来世の二世までもあなた様にお頼み申し上げておりましたようですので、安芸に上国されて隆元のために一寺を建立して頂く事を肝要に思います。このこと、私と元春も力の限りを致すつもりでおります。

元就の御心底についてはお察し下さい。

一寺建立の儀については急ぎお願いしたいとの事であります。詳しくは昇蔵司に申し含めておりますので、よろしくお願い致します。恐惶謹言。

卯月十一日 隆景 (花押)

あの普段から冷静さを漂わせている小早川隆景でさえ、兄の死後は狼狽えて「毛利家は終わった!」と叫んでいたそうです。まあ隆元が死んで一気に毛利家は傾きましたので(以前の記事参照)、仕方のないことですね。

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)後

いかがでしょうか。読んでみて皆さんはどう思いましたか?私は

長いよ!!

の一言でしたね。(苦笑

いや、いい事を言っているのはわかるのですが、何とも同じことの繰り返しというかそれが冗長というかなんなのか。貰った隆景も隆景で読んでいて何を思ったのか激しく気になりますね。良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ、と言いたくなってきてしまいます。出した相手が父親であること、内容が自分の過去語りが入っていて(自分の教訓からと言ったらそれまでですが)くどくどしいということ、結局のところお前は我慢しなさいよという説教くさい事を考えると、隆景も面倒くさかったのではと邪推してしまいます。(苦笑

しかし話が長い、同じことの繰り返し、説教、ということを踏まえると、本当に息子を心配していて、注意したかったのではとも感じられます。もしかしたら謀神・毛利元就は心配性であったのかもしれませんね。大事なことだから二度言った、のでしょうか?(まぁ二度どころじゃない気もしますが)

因みに「良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ」と書きましたが、この手紙実は本当に長いので前半部の重要な所だけ書き出したものです。

書き出してこれか、とは言わないで…

 

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)中

お次は文章を読みやすく、訳したものです。

又四郎(隆景)へ 元就より

児玉に聞いて大体のことは分かった。お前が言っていることはよく分かるよ。

今更言うようなことでもないし、前々から言ってることだけど、堪忍していれば物事は悪いようには絶対に進まない。だから我慢しなさい。

お父さんなんか井上の者達に、興元が亡くなってから40年間も、家中の皆がまるで主人に仕えるように井上一族の言いなりになっているのを我慢してきたんだ。

その悔しさは言うに堪えないと思ってほしい。

40年の間ずっと耐えてきたことは、今更言う必要もないだろう。

ただ、私も年を取り、このまま無念を晴らさずに死ぬのはなんとも我慢できないと思ったからこそ、この度の処罰を下したんだ。

でもね、どんな事も考えなしに適当にする事は絶対にしてはいけないよ。

第一、その家の主人が家臣を粛清することは手足を斬るような事であって、してはいけない事の中で一番悪いことなんだ。やってはいけない事としてこれよりひどいことはないぞ。

井上一族の事はああでもしないと家を保つことができなかったから、どうしても避けては通れない道だったからこそやったんだよ。

お前の言い分は、大体はわかっている。

でもお前に関して言えば親類や家臣の方達はいずれもお前によく従ってくれているじゃないか。

それに皆、他の家の者達とは比べ物にのないぐらいよく働くと聞いているよ。家臣に大切なのはそういうことなんだよ。

そういう事だから、些細な事でとむっとして腹ただしく言うのは絶対にしてはいけない。

皆の意見に合わない事や道理に適っていない事を言ってしまうような事は、一番避けなければならない事だ。

今までのところ、御家中の皆さんはお前を誉めていると聞いているよ。

お前を悪いようには少しも言っていないようなのだから、お前が万一家中の事で道理に反するような事を言ったりすることは

もってのほかだから、そういう間違ったことがないように見下した言い方をしないように、よくよく気をつけなさいね。

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)前

では今回から元就が家臣粛清に対して息子、隆景に送った文章を紹介していきます。まずは本文でご覧下さい。

 

又四へ もと就

又児蔵所へみつみつにて承る儀、其の申し聞かせ候ほどに承知候、

相かまへて々、いうやうの事候共、御かんにん候はては曲あるましく候々、

我々などは、井上之者共に、興元死去以来40年に及び、悉く皆彼の者共を主人に仕え候しかるをこらへ候、

その内の口惜しさなどは、いうばかりとおぼしめし候哉、

既40年の事候は間、長々敷かんにん、申すもおろかに候々、

唯今はや我々も年より候程、もし々かやうの無念を散らし候はで、いか躰にも罷り成し候しかばと存知候てこそ、此の時分存立たる事にて候へ、

およその事共に聊爾なる儀共仕べく事有るまじき候、

第一、其の家の主人内之者をうしない候事は、手足をきるにてこそ候へば、わるき事の最上にて候、よからぬ儀是に過ぎたる事にて候へ共、

此の家の事はかやうに仕候はては叶わぬことにて候程に、のがれぬ事にてこそ仕候へ、

およその事共にては候はず候、

そこもとの事は、御親類御被官中いつれも々ならいよく御入候にては

みな々馳走比類なき由承りおよび候の間、かんえう此の事にて候、

然る處少の事共気持ちたて共めされ候て、何かと仰せられ候はん事は、努々あるまじき候、

おかしけなる事共、仰しめされ候ては、ことの外めされさけたる事にてあるへく候、

唯今迄は御家中衆も其の方をばほめ申すやうにこそ聞きおよび候へ、

あしざまには聊かも申されぬように候の處、萬一おかしき事共仰しめされ候はば、

以て外に各曲無く見さけ申されるべく候の条、よくよく御心え候へく候々

 

粛清の件、息子隆景へ。(短いversion)

積年の恨みに加え、家中で専横、横領を繰り返す井上一派を粛清した毛利元就。彼はそのすぐ後に、小早川家の跡を継いだ三男・小早川隆景に対してこのような手紙を送っています。今回はその手紙の要所部分だけを、短くまとめて抜き出したものをご紹介します。

「その家の主人が家臣を殺す事は、手足を切るようなもので最悪の行為です。これ以上悪いことはないでしょう。一般的に家臣を殺すということは、その主人に器量がないために起こったことであり、器量のある主人は家臣を殺すような真似はしないものです。このことをよくよく、心得て置いてください。」

これが井上一派粛清に関してのことだということは隆景もは充分に知っていたでしょう。父・元就は自身の苦悩と自戒を篭めて、この手紙を息子に当てて書いたのです。折しもこの時、小早川家を継いだ隆景は家臣の統率がうまくいかず、粛清も視野に入れていたといいます。そんな息子を思って、「父親のようなことはしてくれるな、自分のようにはなるな」と手紙を書いたのかもしれませんね。

このような逸話を見る限りでは、何だか三男の隆景が一番元就に似ている気がします。嫡男、隆元は容姿も母親にのようですし、だったら間の元春と五龍は・・・うーん、吉川の血筋ですかね。

ともあれ次回は、「この手紙をさらに」詳しく見ていくことにしましょう。元就の手紙の冗長さが理解できるでしょう。

 

毛利両川体制

さて吉川元春の話が続きましたが父親である毛利元就に話を戻しましょう。策謀を重ねて、次男・元春に吉川家を継がせることに成功した元就。その一方で小早川家の相続問題で、当主・小早川繁平がまだ幼いこと、盲目であったことを理由に繁平を出家させるなどして三男・隆景に小早川家を継がせるように取り計らいます。

これにより元就は小早川氏の水軍を手に入れ、また以後に「毛利両川体制」と呼ばれる毛利家の補佐体制を確立、そして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏両家の勢力を取り込んだことによって、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしたのでした。さあ、毛利家はこれからどんどんとその勢いを増していきます。

しかし天文18年2月、元春と隆景を伴い山口へ下向しました。この時元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くまで伸びて、吉田に帰国したのは5月になってからでした。この頃の山口大内家は、主君の大内義隆の戦嫌いが加速し、陶晴賢ら武断派と文治派の対立が激しくなっていましたので、元就も病床の床にありながらも大内家の行く末を懸念していたのかもしれません・・・・。

因みにこの時元就を看病した井上光俊は元就への献身的な看病を感謝され、嫡男・隆元からお礼の書状を貰っています。この事が彼の身を助ける結果となるのは、また後日です。

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小早川家の相続

さて小早川家へ養子に出された隆景ですが、その時に毛利家から出されてある手紙がありますので今回はその内容をご紹介しましょう。

「このたび御家(沼田小早川家)又鶴丸(繁平)殿より竹原隆景へご相続ができましたのは全て皆さま方のご好意によるものです。我々はこのことを感謝し尽くしても尽くせませんそこでこのご好意についてはこの元就・隆元親子は言うに及ばず、例え御家が没落したとしても忘れず、長きにおいて粗末な扱いをすることは決して致しません。もしこのことに嘘偽りがあれば、梵天帝釈・四天王・総ての日本国中六十余州の大小の神々、中でも厳島両大明神・八幡大菩薩・天満大自在天の各ご神罰を受けることを誓います。

天文二十年 九月 二十八日

隆元 御判

元就 御判

乃美弾正忠殿

これは小早川家相続について毛利元就・隆元が前主君のアフターケアを小早川家家臣の乃美景興に誓約した起請文ですが、内容を読んでいるだけで毛利家の真摯な態度が伝わってきますね。決して毛利家が上から目線で隆景を養子に出したわけでないことがわかります。こんな態度だったからこそ、隆景も養子先で無碍に使われることもなかったのでしょうか。

しかしこれにより小早川家中をまとめて傘下に入れることに成功した毛利家はさらなる飛躍を遂げることになります。

聡明だった徳寿丸

さて望まれて小早川家へ養子に行くことになった徳寿丸。ここからは元服した時の名前、よく知られている小早川隆景の名前で表記しましょうか。この小早川隆景は聡明な人物で有名ですが、その聡明さは幼い頃から人より抜きん出ていたようです。今回はその逸話をご紹介しましょう。

隆景は13歳で人質として大内氏に行き、そこで人質として三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告したといいます。

「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。なぜならば大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶晴賢は諌言を尽くして、ついには義隆の意に反するようになりました。そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、晴賢を讒言しました。なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、晴賢に心を寄せる者が多くなっています。主君が晴賢を疎んじ、家臣一同が晴賢に帰服しているような状況ですから、陶が兵をあげるのは時間の問題でしょう。」

元就はこれを聞いて息子の言葉に深く頷いたといいます。この後は隆景の言った通りのようになるのですが、朝鮮出兵のことといい隆景には先を見通す力でもあったのでしょうかと言いたくなりますね。

小早川隆景、幼い頃から聡明だったことがわかる逸話です。

小早川家と徳寿丸

天門13年。1544年、毛利元就は正室・妙玖婦人との間に産まれた三男の徳寿丸を小早川家へ養子に出すことを決めました。

小早川家には元就の姪(早世した兄である毛利興元の娘)が嫁いでいたのですが、前当主だった小早川興景は吉田郡山城の戦いで毛利家への援軍に駆けつけるなど元就と親密な関係を築いていました。

しかし天文10年に興景は子供もいないまま早世してしまいました。困り果てた小早川家の家臣団から元就は徳寿丸を養子に出して欲しいと要望を受けましたが、この時は徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っているようです。一説にはこの時断ったのは妻の妙玖婦人がまだ幼い徳寿丸を手放したくなかったためとも言われていますが、真相は定かではありません。

しかし困ったのは小早川家の方です。この頃の安芸は戦が頻繁に起こっており、小早川家は当主不在のまま何度か戦に駆り出されていました。困りはてた小早川家家臣団は今度は大内義隆に元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこみました。元就も義隆の頼みを断ることは出来なかったのか、はたまた別の意図が生まれていたのか、全当主・小早川興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行き、小早川家はなんとか存続することになったのです。

 

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