尼子勝久最後の言葉

さて山中鹿之助らの奮戦虚しく、尼子軍が籠る上月城は織田信長に見捨てられ、尼子勝久は自刃、尼子再興は叶わぬまま終了となります。

ここで聞きたいのが、尼子勝久と言う人物は一体どれほどの人が知っている人物で、どのような認識をされている人物でしょうか。尼子再興の為の御輿であり、持ち上げられるだけ持ちあげられてうち捨てられた人物と言うだけでしょうか。

その尼子勝久の最後の言葉を記したものがあります。

1578年、播磨国において毛利軍と羽柴軍が鬩ぎ合いをしていた頃。前線の要であった上月城にいた尼子再興軍に織田信長は撤退を促したが、尼子再興軍は敢えてこの場に残る事を選びました。勝久は降伏するのですが、その際に家臣達に伝えたのが、この最期の言葉です。

『法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を、一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。みな今後は命を永らえ、命を大切にするように』

尼子勝久、享年26歳。

この言葉を見る限りでは、尼子家の再興も無駄ではなかったのでしょう。この後勝久は城兵の命と引き換えに自刃します。その際にも「武士として自刃で死ねるのは本望である」と言葉を残しています。

尼子勝久、逸話の少ない彼もまた、戦国の世の武士であったのでしょう。

新宮党粛清

尼子宗家と新宮党は日に日に溝が深くなっていきました。そして新宮党の国久の娘であり、当主の晴久の正室が亡くなってしまった事で両者の溝は決定的になりました。

天文二十三年十一月一日。定例評議の為に国久、国久の嫡男の誠久、そしてその息子である敬久ら新宮党も登城します。この時を待っていたとばかりに晴久は配下の者達と新宮党を襲い、その一族を殺害しました。後の世で言われる、晴久による新宮党粛清です。新宮党の者達はことごとく殺害されましたが、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺で僧となりました。

一族内で争うという外聞の悪い事態こそ起こしたものの、晴久の新宮党粛清により尼子家内の権力は尼子宗家に集中化していきます。時として権力が分裂化していると家がまとまらなくなり、有事の際に正しい判断ができずに滅んでいくのは織田家と戦った浅井家などが良い例なのかもしれません。

この後すぐ尼子家が衰退していくならばこの新宮党粛清は間違った行為といわれるでしょうが、事実この後も尼子宗家は権力を盛り返し、毛利家との戦にも勝利しています。尼子内の権力を一本化した晴久の行動は正しいものであったという証明でしょう。

余談ですが、この時唯一生き残った子供こそ、後の世で山中鹿之助によって世に出される尼子勝久なのです。

新着

謀聖

今回の大河ドラマは官兵衛最大の山場でもあるので、とても話が盛り上がってましたね。この絶体絶命の佳境の中、官兵衛は一体どうなってしまうのか!?(知っている人は知っている)

さて、前回も言いました通り少し尼子家について触れていきたいと思います。秀吉の九州出兵は今少しお待ち下さい。いずれ書いていきたいと思いますので。

尼子家を語るならば外せない人物、今回の題でもある「謀聖」と呼ばれた人物・尼子経久。山中鹿之助が仕えていた尼子勝久の曽祖父になる人物です。尼子家はこの経久の代で大きく戦国の世に躍進していく事になるのです。

そんな尼子経久がどのような人物であったか簡単に触りだけ申し上げますと、文武両道に優れた人物であり、何と浪人の身から11カ国を支配するまでになった下克上の先駆けの人物でもあります。謀聖の名の通り中国地方三大謀将に数えられる人物で、様々な謀略に優れた逸話を残しながらも「無欲で正直な人物」であるともされている人物です。

謀聖と呼ばれているのはその人柄と、謀略に長けた人物である二つの面を評した呼び名なんかも知れません。山中鹿之助や尼子勝久のみならず、この経久や尼子家についても次回から触れていきますので楽しみにしていて下さい!

新着