今義経

間者として働く勝一に、元網たちの企みは全て元就に筒抜けにされていました。そうとは知らない元綱一派、ついに事を起こそうと動き始めます。そこで元綱は決起前の夜宴で平家物語の弾き語りをするよう勝一に依頼します。

もちろん元綱とて無能ではありません。勝一に謀反も決起も明かしては居ませんが、急に行われる夜宴に元綱一派の決起が近いのを察した勝一は元就にこの事を通報しました。事ここに至っては弟を討つも止むなしと決意した元就は夜宴の最中の襲撃を決定、合図などを決めると勝一を再度船山城へ送り出します。

夜宴当日、元綱の居館船山城を志道広良率いる300の兵が急襲しました。勝一の弾き語りが佳境となった時を見計らって兵達が突入、元綱はじめ30人ほどがその場で討ち取られ、勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた坂広秀や渡辺通らも後日討たれたといます。

異母兄弟でありながらも仲が良く、自分のために尽くしてくれていた弟を討たなければなかった元就の悲しみは深いものであり、弟の死を悼むとともに出家していたもう一人の弟を還俗させて自身の傍に置いています。

そして元就はこの事件の背後に尼子経久の策謀が有った事を知り、尼子と決別することを決意し、以後は大内側に付くようになったのでした。

確かに今義経、土壇場で兄を裏切るようになってしまった行動が悲しくも似通ってしまったのですね。戦国の世は珍しくもない話ですが、今の世で見ると何とも痛ましい気分になってしまいます。

骨肉の争い

1523年。鏡山城合戦の直後に毛利家当主の毛利幸松丸が逝去しました。これにより毛利家の当主は不在になり、毛利家は混乱していました。しかし重臣らの推挙で幸松丸の後見人をしており、叔父であった毛利元就が毛利家家督を継ぐことになりました。しかし、これにいい顔をしない人物がいます。毛利家にとって主家にあたる尼子家の当主・謀聖と呼ばれた男、尼子経久です。彼は元就が油断ならない人物と見抜いており、何とか別の人物を毛利家の当主にすべく動きます。

尼子経久の画策により、亀井秀綱が毛利家の家督相続に介入し始めました。秀綱は毛利家臣の坂広秀・渡辺勝らと共に、元就の異母弟で優秀と名高かった相合元綱を担ぎ上げて元就への反乱を企てます。奇しくも元網にも元就の毛利相続にどこかで不満があったのでしょう。元綱は数名の有力な家臣と結託し、尼子や石見の高橋家と結んで元就に対する謀反を企図しはじめます。

それを察した元就は琵琶法師・勝一を元綱の元に「話し相手」として送り出しました。話し上手・琵琶上手の勝一は盲目の為警戒されずに元綱の居館・船山城に出入りし、元綱の謀反の計画を探り元就に伝える間諜としての役目を見事果たしていったのでした。

 

戦国の異名と、魔王・3

さて歴史に戻りましょう。ここから魔王・武田光和の生涯をざっくりながらも追っていきます。

1523年、尼子経久が安芸中部の鏡山城を落とした事で安芸の大半は大内から尼子の勢力下となりました。そしてその翌1524年、大内義興は安芸を取り戻すべく経久が伯耆に出兵した隙に安芸西部の桜尾城、そして武田光和の居城、佐東銀山城に出兵します。

佐東銀山城を囲むは大内家の柱石・陶興房とこの戦が初陣の大内義隆、そして彼らが率いる兵は1万5千。光和が率いる篭城軍は3千・・・この時点で五倍近い兵力差です。

しかし6月25日の緒戦では援兵として来た熊谷・香川の兵千余りが敵の抜け駆けを察知して大内方の杉・問田氏率いる千5百余りを撃退。それから7月に入り光和率いる篭城軍3千は何度か大内側と合戦を行いました。その中先陣に立って奮戦した人物こそ、城主・武田光和その人です。

自らの武勇を頼みに大内方の兵を斃す光和。しかし当然その話は大内方にも知られ、ならば何とか討ち捕ってしまえと作戦が立てられます。中国地方で敵無しと評判の豪傑・若杉四郎三郎と、やはり大力で知られたその弟、または大黒新允と言う大力の者や大内義隆の近習で打物達者と言われた者を加えて、彼ら4人が囲んで光和を斃す作戦が立てられました。

さて光和はどうなってしまうのか?

有田中井手の戦いまでの経緯

今回は有田中井手の戦いに至るまでの経緯から見ていきましょう。

それは1508年の事。大内義興は足利義植を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従って上洛しました。一方、在京していた若狭武田氏当主であった武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持していました。この辺りから、既に嫌な予感が漂っていますが…これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなります。上洛した義興は義稙を将軍職に復帰させると、自身も管領代として京都に留まったのは皆さんご存知ですね。元繁もこれに従い駐留を続けていましたが、大内氏当主と主力が不在の安芸国では厳島神主家で後継者を巡って内輪もめが発生していました。

これに不安を感じた義興は、1515年にこの内部の乱れ鎮圧のために元繁を帰国させることを決定しました。しかし義興もまた元繁に不安を感じていたのかもしれません。この時義興は、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせています。おそらく、元繁の離反を防ぐためだったのでしょう。

しかし不安は的中、元繁は帰国後すぐに妻を離縁して、尼子経久の弟・尼子久幸の娘を妻として大内氏に反旗を翻します。元繁が尼子方から支援を受けたのも、こんな経緯があってこそなのです。

 

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尼子攻めと負った心の傷

さて大内義隆の敵は目下尼子勢のみとなりました。当時尼子家は嫡男・政久を失って家中が揉めていた頃です。

さてまずは1540年、出雲の尼子晴久が安芸に侵攻してくると傘下の領主代表だった安芸の毛利元就に援軍を派遣し、大内家と毛利家は尼子家を退けました。翌年には武田信実を滅ぼして安芸の支配権を確立しました。この頃はまだ問題ではなかったのですが・・・・。

問題の1542年。この年、謀聖と謳われた尼子経久が逝去した事で、尼子家臣が大内家に離反してきました。嘉隆はこれを尼子家を滅ぼす絶好の機会と捉え、自ら出雲に遠征します。これが大内家の命運を分ける事となりました。

義隆は、弱体化した尼子家を倒す程度なら大内軍の主力を動員する必要はないと考えていました。そのため、安芸や石見の国人領主を中心とした連合軍を結成して出雲に侵攻しました。 だけれど尼子軍の新宮党の予想以上の抵抗と、長期にわたる派兵によって領主達の不満は募っており、ついには寝返りや逃亡が頻発。大内軍は総崩れとなって遠征は失敗に終わります。その上この時養嗣子として従軍していた大内晴持が事故死した事で、義隆は心に深い傷を負ったのかますます戦嫌いとなって、以後は戦場に出向くことはなくなったといいます。

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亀井重綱の忠義・後

しかし重綱はこう言いました。

「昔、経久様は私を興久様の付家老とする際、『興久を守り立て、末代まで中国地方に名将たる名を残さしめよ』と言って幼子をお預け下さいました。なので私め、興久様に武芸武略の全てをお教え致したる所、その成長は著しく早くから他人勝り、この間まで伯耆・出雲に肩を並べる者もあるまじ、これ我が手柄なり、と自負しておりました。しかし今、このような悪事を企てるに及んだのは実に我が補佐の届かざる罪でございます。自害して詫びるべきを、かつての恩の忘れ難さについここまで来て余計なことまで語ってしまいました。私はもはや興久様と君臣の契りを交わした身、経久様の仰せに従い、ここに留まるわけには参りませぬ。これにてお暇いたす!」

重綱は言うが早いかサッと座を立ち、門のすぐ外につないでおいた馬に飛び乗りって「止められる者あらば、止めてみよ!!」と叫んで城を駆け抜け、城下に火を放って風のように走り去りました。経久の家臣が追撃しようとしたが、経久が「追うな!」と堅く止めるので、誰一人これを追う者はいませんでした。

その後起こった興久の乱は大乱となり、重綱は尼子国久に討たれました。重綱の死を聞いた経久は、

「重綱のごとき進退に勇あり、心に堪忍深き侍は稀だった。彼が我ら親子の間に臣たらんとしてくれた行動の数々、思い知るべきである」

と言って嘆いたといいます。

亀井重綱、尼子家の悲劇の陰にいた忠臣の逸話です。

吉田郡山城の戦い

尼子晴久が躓いてしまった戦いが此方、前にもチョロっと触れた吉田郡山城の戦い、郡山合戦とも呼ばれる戦です。この戦に至るまでの経緯の逸話をご紹介しましょう。

この頃毛利家は尼子家を見限って大内側へと鞍替えをしていました。このため尼子家家中では毛利討つべしの声が大きくなっていましたが一人この毛利との戦いに反対する人物がいました。尼子経久の弟の尼子久幸、彼は毛利元就は油断ならぬ人物であるので、毛利家とは戦ではなく、外交的解決を行うべきと主張していました。

この久幸、その優秀さと冷静さを買って兄の経久が家督を譲ろうとしたほどの人物です。

ですがこの時既に尼子家も晴久に代替わりしており、尼子家の多くが主戦派になっていた事もあって激しくこの考えに対立しました。当時毛利元就は安芸の一国人。何に臆するものがあると憤ったのです。この久幸の意見に怒った晴久はこう言いました。

「下野守(久幸)殿は戦が恐ろしいのじゃ。だからいつも戦に反対しなさる。臆病野州と呼ぶが良かろう」

久幸は非常に冷静な人物であり、勝ち目のない戦はすぐに見抜いてそれが経久でも反対意見を述べていた人物です。その人物を晴久は臆病者と揶揄しました。

臆病野州。あるいは野州比丘尼。主戦派は彼のことをこう呼び嘲笑いました。だけど久幸はこの仕打ちに耐え、あくまで非戦を訴え続けましたが、晴久は毛利討伐の戦を開始してしまいます。それが、郡山合戦です。

尼子晴久という人物

さて、期待大の嫡男尼子政久は早世し、尼子経久の後を継いだのはその政久の子供である尼子晴久です。この晴久は近年に至るまでは無能で傍若無人な人物として長らくその評価を貶められてきましたが、これらは毛利側の記述によるもの。歴史は勝者が作るものです。

そもそもとして晴久が後を継いだ時には、大内氏との関係は悪化しているだけでなく、尼子家内部での新宮党という存在による一族間の不和、敵対者として毛利元就が台頭してきた等など、上げていったらきりがないような酷い状態が作られていた事。そしてこれらはあの尼子経久でも(例え晩年であったとしても)処理できなかった事態でもあり、そんな中で跡を継いで尼子氏最大の版図を築いた尼子晴久という人物は一概に駄目武将の烙印を押されるほど酷い人物ではなかったと考えられています。それどころか一説には尼子晴久という人物は「仁徳の武将」とも言われる優秀な人物であったとも記されているようです。

但し、祖父にも言われた通り尼子晴久という人物はやや血気に走る所があり、経久に比べると(あんなスーパー謀将祖父さんと比べるのもアレだが)やや思慮深さにはかける人物ではあったようです。

さて祖父からの負の遺産を引き継ぎながらも、尼子晴久は尼子家を守り立てる為頑張っていくのですが・・・ここ初っ端で、晴久は躓いてしまうのです。

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尼子家に至った訳・後

産まれた子の可愛さに絆されたか、それとも気が抜けていたのか。佐々木は天女も人の母親となったのでもう天上に帰る事は無いかと安心して、嘗て自分が彼女の衣を隠した事を告白しました。驚いた彼女は佐々木に「その衣は懐かしく思いますので、どうか見せては頂けませんか」と申し出ました。そして取り出して渡すや否や、彼女の体は空へと舞い上がっていきます。

「貴方との今生の対面はこれまでです。どうかその子を元気に育てて下さい。私はその子を天から見守っています」

そう言うと、天女は空の彼方へと舞い上がって雲の中へと消えていきました。佐々木はこの事を嘆き悲しんだと言います。

さて残された子供は成長した後、苗字の佐々木を天子、あまこと改めました。勿論この意味は「天人の子」という意味です。しかしその後、人から尼子の字は帝に恐れ多いのではないかといわれて「尼子」と文字を改めたそうです。

その子供の成長した名は経久。この天人と人の間に生まれた不思議な子こそ、戦国の勇、謀聖と呼ばれた男・尼子経久です。

出雲の地に伝わると言う、尼子経久出生の不思議な伝説です。昔話にある天女の話によく似ていますね。このような伝説が生まれるとは、やはり当時でも尼子経久という人物はどこか常人とは違う人物であったのかもしれません。

尼子家に至った訳・前

これは尼子経久の出生と、尼子家に至るまでの話の一つとしての逸話です。ちょっと不思議な話でもあるので、物語のようにお楽しみください。

さて昔ある時、佐々木大膳大夫なる者が狩猟に出て出雲から伯耆へと向かっていきました。たどり着いた場所は人の行き交いも少なく、清流の流れる川がありました。佐々木、この川で少し休んで行こうかと近付くと、何やら声が聞こえます。そっと伺ってみると、一人の美女が裸で水浴びをしていました。

息を潜めながら近付いていくと、川端の石に衣がかかっているのを見つけました。この頃もはとても珍しいもので、蝉の羽のように美しくとても軽い衣でした。佐々木はこれを懐に入れ、近くの麻畑の中に隠れました。

さて美女が川から上がると、自分の衣がありません。この事に泣き始めたので、佐々木は偶然を装って美女に話しかけました。

「貴方は一体どなたですか?」

「私は天女です。天よりこの水の清らかさを見て、下って水浴びなどをしていました。ですが今自ら出てみると衣が無いのです。衣が無くては天にも帰れないので、どうして良いかわからず泣いておりました」

「それは御困りでしょう。とりあえず私についてきて下さい」

佐々木は着替えをこの天女に貸してやり、家に連れて帰りました。二人は夫婦となり、可愛らしい子供に恵まれました。