山中と秋上・後

さて最後の別れをしに来た伊織助に、鹿之助はこう答えました。

「侍は渡りものである。貴方の父の決断は無理もない事だろう。だが貴方は少年のころから私の話し相手であり、友だった。こうなった今でも断金の友だと私は思っている。貴方が親とともに行動するという事を、どうして恨みに思うものか。今日ある命も明日には知れないのが武家の習いだ。さあ、別れの盃を重ねようではないか。私は明日から、伊織殿を討つための謀略を練る。貴方もまた、私を殺す算段をするといい」

二人は盃を出して取り交わし、さしつさされつたっぷりと盃を交わしあいました。それは幼い頃から共にあった二人の友の、最後の盃でした。

「ではこれまでだ。明日は戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れまい」

鹿之助と伊織助は互いに手に手を取り、涙にむせんで立ち別れました。

伊織助が森山の城に帰った後、鹿之助らは秋上の所領に夜討ちをかけました。けじめをつけた後での夜襲、その時鹿之助は何を思ったのかは記されていません。ともあれ鹿之助と伊織助の最後の別れの盃、という逸話です。

結果としてこの後、鹿之助も勝久も滅んでしまう事を思えばこの時の秋上の判断は間違っていなかったのでしょうけれども、幼い頃からの友と敵同士になると言うのは、今の世から見ても物悲しいものを感じさせますね。

山中と秋上・前

さて今回は尼子十勇士の一人としてその名を数えられる、秋上伊織助と山中鹿之助の話をしましょう。以前にも出てきた秋上伊織助は弓の名手でも知られる、尼子家の勇将であり、山中鹿之助とも旧知の中です。

そんな伊織助の秋上家は出雲の国の大宮司であり、無二の尼子方でした。ですが鹿之助によって擁立された尼子勝久が「もし本意を遂げて出雲に入れたら秋上・山中を執事とする」と約束していたにも関わらず、次第に山中鹿介の方針ばかりを重んじるようになってきていました。これに伊織助の父・三郎左衛門尉は不満を抱いていました。

さてそこに誘いをかけてきたのは吉川元春。あの毛利元就の次男です。また毛利です。まぁ元春より「うちなら優遇するよ!」とお手紙がきました。これを受けた三郎左衛門尉、渡りに船と喜び、毛利家に味方する事に決めてしまいました。

さて、三郎左衛門尉の嫡子であった伊織助、たった一人で鹿介の宿所に赴いて面会を申し入れました。

「こんな事になってしまってから会いに来るなど、面目もないとお思いだろう。しかし私と君とは少年のころから仲良くしていて、死ぬなら共にと約束した仲だ。だが愚父は毛利家に属すと決めてしまった。明日からは敵になるだろう。そうなればこうして会って話をすることもできなくなる。君とは朋友としていつまでもともにいたかったのだが、残念だ。これまで仲良くしてくれてありがとう。今日は別れを言いたくてここまで来たのだ」

出てきた鹿之助に伊織助はこう言ったと言います。

山中と明智の風呂話

さて山中鹿之助といえば尼子家の家臣です。この鹿之助が織田家の家臣、あの明智光秀との間にちょっとした逸話がある事をご存知でしょうか?今回はこの二人の名前がでてくる、ささやかな逸話をご紹介します。

ある時、明智光秀の家臣・野々口丹波は山中鹿之助が逗留している旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、どれほど幸せなことでしょうか」と言いました。勇将、山中鹿之助と話がしてみたかったのでしょうか。この誘いを快く受けた鹿之助、野々口の家に行く約束をしました。

しかしこの約束をした直後に明智光秀から「今日は風呂を用意しましたので来られるように」との誘いがきました。ですが鹿之助、「ご家来の野々口と先に約束をいたしました」とこれを断ってしまいます。

普通ならば先に約束したとはいえ家来に顔をつぶされたと思いそうなものですが、光秀はこれに笑って「これで山中殿をもてなすように」と野々口に雁一羽と鮭一尾を与えたといいます。誰か一人でも間違えば後味の悪い逸話になりそうなものですが、鹿之助も光秀もおおらかに接しているのでなんだかすっきりと終わる逸話になっていますね。

何はともあれ、鹿之助先約を守って明智光秀の誘いを断った、という逸話です。

山中鹿之助の三日月信仰

さて以前山中鹿之助の「我に七難八苦を授けたまえ!」という発言と祈りについての解説を少し行いましたが。今回もそれに少しばかり関係のある話です。七難八苦の際も山中鹿之助は月、それも三日月に対して祈りを捧げました。山中鹿之助という人物は生涯に渡って三日月を信仰していたようです。その三日月信仰に至るまでの逸話です。

山中鹿之助には兄・山中幸高がいました。因みに父親の名前は満幸です。字面だけ見るととても幸せそうな一族です。まぁ閑話休題。

しかし鹿之助の兄・幸高は生来病弱であり、この兄に代わって鹿之助は山中家の家督を相続する事になります。そして先祖伝来の三日月の前伊達と鹿の角の脇立がついた兜を譲り受けました。この時鹿之助は

「今日から30日以内に武功が立てられます様に。」

と夜空の三日月に祈りました。程なくして、主家の尼子家と山名家との間で行われた尾高城の戦いに出陣した鹿之助は、豪傑として名高い菊池音八を見事に討ち取りました。一説には鹿之助の名はこの兜に由来しているとも言われており、これがきっかけとなって山中鹿之助は生涯に渡って三日月を信仰するようになったのだといいます。

山中鹿之助、三日月に願いを立てるという逸話。余談ですがお隣の毛利さんも「お月さまに祈ってね」という教えがあります。

和歌で知る心

さて山中鹿之助といえば勇将である事が多く伝わっている武将です。今回はそんな鹿之助の、意外に風流であった逸話をご紹介しましょう。

尼子一族の最後の(って訳でもないけど)一人である尼子勝久を擁立して尼子家の再興を願う鹿之助。彼の元には旧尼子家の家臣達が続々と集まって来ます。しかしそんな中、鹿之助は不思議に思っていた事がありました。

当時毛利家に仕えていた尼子の元家臣で、真っ先に合流するはずと考えていた神西元通の事です。尼子家再興を掲げたのに彼から何の連絡もありません。そこで叔父の立原久綱と相談して元通の本心を探る為に使者として僧を派遣ししました。

派遣された僧は扇を差し出しながら

「山中殿と立原殿は、神西殿と盟友でしたが、今は敵味方に分かれ会う事も難しくなっています。お二人はここは一筆頂いて、本人と対面しているかの様な気持ちでそれを眺めようとおっしゃっていました」

元通これに、

「古柄小野の本柏」(ふるかわおののもとかしわ)と書いて返しました。

これを受け取った鹿介と久綱。扇の文句は

「石の上 古柄小野 本柏 もとの心は 忘れなくに」

という古歌の一節で、元通は旧交を忘れていないのだと判断。再び僧を派遣したところ、元通は尼子再興軍に参加する事を表明したのでした。山中鹿之助、和歌で友人の心を知るお話。山中鹿之助は勇将であるだけでなく、古歌にも通じていた事が窺い知れる逸話です。

七難八苦について

さて山中鹿之助といえば有名なのが例の「七難八苦」についての事でしょう。

これは山中鹿之助が月に向かって祈り叫んだという「我に七難八苦を授けたまえ!」という話から来ています。主家尼子家の為に一日も早く手柄を立てるべく、このような願いをしたと言われています。しかしこの一方で現代ではこの祈りの言葉が有名になり、「山中鹿之助ってドMなんじゃ・・・」という不名誉な疑惑が生まれてしまっている次第でもあります。

まぁそれは歴史好きな方々による冗談の面もあるのでしょうが、この七難八苦については色々な視点があるようです。実際は「我に」とは叫んでいなかったというもので、「(自分の敵である)毛利家に七難八苦を授けたたまえ!(そんで滅びろ!)」というちょっとした呪いであったり、「主家尼子家に降りかかる七難八苦を(私が肩代わりするので)私に授けたまえ!」というものであった、など色々な話が出てきています。言い方を変えるだけで山中鹿之助という武将のイメージも色々変わってきて、面白いですね。もしかしたらこの先も歴史家によって色々な説がでてくるかもしれませんね。ぜひ色々な説を調べていってほしいものです。

今回は山中鹿之助の七難八苦発言による一説でした。

 

新着

山中鹿之助の教え

さて今回も山中鹿之助の逸話です。

尼子勝久を擁立して尼子家の再興を狙う山中鹿之助幸盛が織田家と同盟して毛利家と対立したのは有名ですね。この尼子家でも有名な勇将に、明智家臣野々口丹波がある相談をしました。

「私は戦場に出ると混乱して何が何やらわからなくなってしまうのです。ですが私の同輩達はそうではなく、冷静に動けるらしいのです。これは私が生まれついての臆病者という事なのでしょうか」

成程、良くあるような不安と悩み相談ですね。鹿之助はこれに微笑んで答えました。

「貴方様は正直な方ですな。ですが槍をどうふるったの、立ち回ったのと吹聴しているのはほとんど嘘っぱちですよ。この鹿之介も初陣からしばらくは無我夢中で動きまわって、気がついたら武勲を挙げていたというのが実の所です。実際に周りが見えて冷静に動けるようになったのは、十ほど首を上げてからの事です。何、今は混乱していてもじきに慣れますよ」

何事にも慣れと経験が大事。何でも最初から出来る人なんていないよ、という山中鹿之助の教えですね。流石八歳で人を殺した人間の言う事は違いますね!

勇将山中鹿之助の有り難い教え。何事も慣れるまで頑張り続ける事が大事、という所でしょうか。まぁこの人頑張ったけどbadEndだったのですが・・・。

山中鹿之助の母・後

当時、鹿之助の仕えていた尼子領内は毛利方に圧迫されている状況であり、鹿之助の家もそんなに裕福な状況ではありませんでした。それでも鹿之助の母親は息子の友人達の面倒をいつも見ていたと言います。

そして長い年月が流れました。惜しくも尼子は毛利に敗れ、その家臣達も散り散りになってしまいました。しかし鹿之助、主家である尼子家を再興させようと立ち上がります。この鹿之助の決起を聞いた昔の仲間達はこぞって鹿之助の元へと集まって来ました。

この時集まってきた仲間たちこそ、幼い頃戦ごっこをして遊んだ仲間達であり、鹿之助の母親がいつも面倒を見ていた子供達でした。彼らは鹿之助と、鹿之助の母親から受けた恩を忘れていなかったのです。そして鹿之助の手伝いをしようと駆けつけてくれたのです。正に母親の愛が、息子に勇敢な仲間達を授けてくれたという逸話です。山陰の麒麟児と言われ、十人以上いる事で有名な尼子十勇士を率いて主家の再興の為に必死に戦った山中鹿之助。その陰にはこの母の姿があったのですね。

そしてこの時集まった者たちこそ、後の世で尼子十勇士と呼ばれ名をはせた者達だったのです。山中鹿之助と尼子十勇士、そしてその母の愛と教えという逸話です。

 

鹿之助と狼ノ介の一騎討ち・3

狼ノ介、品川大膳は強力の持ち主だと言う事は尼子家でも有名です。武器を捨てて組手にて力でねじ伏せようと言うのでしょう。しかし相手は尼子家の勇将山中鹿之助、これを受けながらもしっかりと対策は考えてあります。だてにドMとか言われてない

組み手にて決着をつけると決まった二人は馬を降ります。が、そこで素早く狼ノ介は鹿之助に飛びついて力任せに投げつけ上に乗りました。

「勝ったぞ!鹿之助、覚悟!」

「愚かなり狼ノ介!喰らえ!」

下になった鹿之助、すかさず隠し持っていた脇差を抜いて狼ノ介の腿を貫きました。突如襲った痛みに狼ノ介はひるみます。その隙を逃さず態勢を変えた鹿之助、見事狼ノ介の首を取ったのでした。

この話は後続にいた毛利本隊まで届いてしまい、

「我ら援軍も待たずに無様な一騎討ちを仕出かしおって。士気が下がるわ!」

と、本体は進軍をいったん留めてしまい、あわれ狼ノ介のいた益田隊はこの日の戦に大敗したとの話です。

そんな鹿之助と狼ノ介の一騎打ちにおける話ですが、最初にも書きました通りこの記述は尼子側のもの。毛利側の記述では「果敢にも一騎打ちを挑んだ狼ノ介に卑怯にも秋上が矢を射かけて邪魔をしたので、狼ノ介は奮戦したが敗れてしまった」となっています。

こんな風に一つの戦を二つの面から見る事が出来るのは中々面白いものがありますね。とりあえずこの戦で、山中鹿之助の名は大きく広まる事になったのでした。

鹿之助と狼ノ介の一騎討ち・1

毛利軍と尼子軍の戦いの中起こった、山中幸盛と品川大膳の一騎討ちについて「尼子方の記録」から掻い摘みつつ説明をしていきましょう。ここでまず気をつけたいのが、山中幸盛という人物はあの尼子家再興を願ってゲリラ活動を続けた山中鹿之助です。

さてこの山中幸盛こと山中鹿之助という名前で有名な男、毛利軍を討つべく広瀬川を挟んで毛利軍と対峙していました。この毛利軍の中にいたのが品川大膳。彼は軍功を上げるべく、尼子軍の勇将である山中鹿之助を討ち果たそうと思っていました。そこで大膳は名を棫木狼之介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)と改めて山中鹿之助幸盛と対峙しました。

これには理由があります。春先に鹿がたらの芽を食べると角が抜け落ちると言う話があり、そして鹿を喰らうために、幸盛に勝つ盛と中々ベタな考え抜いた名前で山中鹿之助と一騎討ちを所望しました。

一騎討ちを挑まれた鹿之助、これを打ち破らんと川に馬を乗り入れました。するとなんと狼ノ介は鹿之助に矢を射かけてきたのです。

「一騎討ちは槍合わせか太刀打ちで勝負と相場が決まっておる!卑怯ではないか!」

鹿之助の配下であり、十人以上いる事で有名な尼子十勇士の一人、秋上伊織介は狼ノ介を非難しましたが、狼ノ介はこれを聞き入れませんでした。