廻城攻防線における少し悲しいお話3

さて、島津家と肝付・伊東家の戦いの最中島津家次男である忠将が討死。家中のみならず父、日新斎の嘆き悲しみは計り知れなかった。しかしその悲しみが大きすぎたのか、ここで余計な不幸を産んでしまう。

「なぜ早急に忠将を助けに行かなかったのか!」

廻城合戦には総大将であった貴久を始め、尚久やの息子の義久など島津家の主な武将達は皆参戦していたのに、忠将を亡くした悲しみと苛立ちを全て尚久にぶつけてしまう。日新斎の言い分は尚久の敵前逃亡とのことだったが、尚久の救援が遅れたのにもちゃんとした理由と言い分があった。尚久の城の南方にあった忠将の陣とは間に深い谷があり、そのせいで進軍が遅れてしまったのである。決して怖気づいたのでもなければ、進軍しなかった訳でもない。

しかし兄を失った悲しみと、父親に敵前逃亡したと罵られた事に心に大きな傷を負ったのか、尚久はこの事を深く気に病み、翌年に病にかかり32歳という若さで急死してしまう。尚久の家臣も主の急死に涙し、殉死者まで出た。ここまで戦の被害が大きくなるとは一体誰が予測していたであろうか。

その後1568年。島津日新斎は長寿を全うする。77歳まで生きたので、当時としては長生きをした方であるだろう。だが忠将、尚久の息子二人に先立たれた悲しみは非常に深かったと言われている。

廻城攻防戦における、少し寂しく悲しい話である。

廻城攻防線における少し悲しい話2

1561年。島津家と友好を築いていた肝付家との争いが始まる。事の発端は酒の席で酔った島津家の家臣が肝付家の家紋にある鶴の吸い物が食いたいと言い出した事だが、実際にはそれ以前からお互いに鬱憤が溜まっていたのかもしれません。肝付家の友好国である伊東家も加わり、そこにまた・・・と事態は南九州を巻き込んだ戦乱になります。

父・島津日新斎もなんとか昔のような友好を築こうと奔走したがどうする事も出来ず、戦は始まります。この時、次男忠将は忠将は竹原山にて町田久倍ら率いる味方が肝付勢の急襲されたとの報を受け、これを救援するために馬立塁から出陣。この時少勢での救援を心配したのか、家臣達は忠将を諌め、本陣から動かないように進言したが忠将はこれを聞き入れずに出陣。その結果山中に付してあった敵兵の挟撃を受ける事になりました。

後続の味方が駆け付けた時には忠将率いる主従数十人はことごとく討ち死にしていたという。この後、貴久は何とか肝付家を退けるが島津家は敗北してしまいます。

島津忠将・享年42歳。島津家の三州統一が順調に進んでいた最中の、早すぎる死に家中の誰もが衝撃を受け、涙したと言われています。特に忠将に大きな信頼と期待を寄せていた父・日新斎の嘆き悲しみは、計り知れないものであったと思われる。が、ここからが三男・尚久の不幸の始まり。

 

廻城攻防線における、少し悲しい話1

前回までのお話で廻城攻防線・島津家と肝付家の争いの話を書いてきましたね。今回はその中で亡くなった、島津日新斎の息子であり、島津貴久の弟・島津忠将と尚久のお話です。

次男・忠将は貴久の六つ年下、三男・尚久は貴久より十七歳も年下で、貴久の息子・義久より二つ年上だったそうで。尚久は貴久、忠将と母親が違いますので年齢に差が出ているようです。そんな尚久は兄の子である義久・義弘と日新斎のもとで兄弟同然に育てられておりました。

忠将は薩摩大隅の領内統一戦に於いて、ほぼ全てに参戦し、武功を上げた勇将。兄である貴久を良く補佐し、戦では常に最前線に立ち続け、初期の戦国時代における島津家を支えたのは武略に優れた忠将だったとまで言われています。この貴久と忠将の兄弟関係は、後の義久と義弘の関係にも大きく影響を与えているのです。

さて尚久の方はと言うと、こちらも各地を回って統括などと色々働いておりました。甥達と同じ教育を受けているところ、後の島津四兄弟の関係を見ると、異母弟でも兄達との仲は良かったのでしょう。年を取って出来た子ほど可愛いように、日新斎はこの三男をかなり可愛がって育てていたようです。

ですが運命の戦が来てしまいます。

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島津、飛躍す

さて、前回言いました通り宴会での酒の席の言い合いは肥大化し、積っていた不満もお互いに爆発したのか肝付家と島津家の争いが始まります。

この時の肝付家の当主は肝付兼続。彼は城に戻るや否やすぐに合戦の準備に取り掛かります。対する島津では、島津貴久の父親である島津日新斎の耳にこの事が入りびっくり。日新斎はすぐに兼続の怒りを収めようとします。長年肝付家と島津家は友好関係を気付き上げて来ているので、日新斎としては当然の行動だったのでしょう。ですが既にこの説得は兼続には届きませんでした。息子であり現当主の貴久も合戦を決定。島津と肝付の合戦が始まります。

で、此処に加わるのが日向の大名伊東家です。伊東家は肝付家と友好関係にあったんですね。そして次に加わるのが肥後の大名相良家。相良家は伊東家と友好関係にあったので、この合戦に援軍を出す事を了承しました。酔っ払いの喧嘩が南九州を巻き込んだ戦乱になるとは誰が予想しただろうか・・・。

当初、戦いは肝付軍が優勢でした。貴久の弟の討ち死もあり、島津は敗退。防戦を余儀なくされます。ですが三年ほど経ち、肝付兼続が病に倒れ、二年後亡くなります。この後から島津は何とか盛り返し、一進一退の攻防を十年以上も続ける事になります。

そして十年後、遂に島津貴久もこの世を去ります。跡は嫡子であり四兄弟の長男である島津義久が継ぎました。ここから、島津は飛躍の時を迎えるのです。

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宴会の席での失言

島津日新斎により島津家は統合されていき、島津は種子島に伝来した『鉄砲』を合戦に組み込んでいく事で大名として力をつけていきます。

そして1561年。島津家の当主は島津日新斎から、その息子・島津貴久へと移り代わりますこの頃、すでに薩摩は島津家の統治によって安定していました。因みに島津貴久こそが戦国大名で一番早く鉄砲を合戦に取り込んだ武将とも言われており、戦国のサンデーサイレンスというあだ名で親しまれています。この意味は分かる人には分かりますが、分からない方の為にまた別の記事でご紹介しましょう。

さて島津家も安定してきた昨今、ある日大隅を支配する大名家 肝付家と島津家 の間で宴会が催される事になります。 肝付家と島津家は友好的な関係で、互いに娘を嫁がせたりして縁戚関係にもありました。島津家が薩摩の支配を固める際の戦いでも肝付家は支援を行ってきています。ですがこの宴会で大きな諍いが起こってしまいました。

一説によると酔っぱらった島津家の家臣が「鶴の吸い物が欲しい」と言った事が発端。鶴は肝付家の家紋なんですね。これに肝付家の家臣が「次の宴会では狐の吸い物を出してくれ」と売り言葉に買い言葉。狐は島津家の守り神です。これから喧嘩はヒートアップ、合戦に至りました。

もちろん、これだけが発端だとは考えにくいので、実は両家には溝があったのかもしれません。それが酒の勢いを借りて表に出てしまったのでしょう。げに恐ろしきは、酔っ払いですね。

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島津日新斎・日新柱

さてあまりの悪ガキっぷりに坊さんに薙刀振り回して追いかけ回された島津日新斎。寧ろそこまでされるほどの何をやったんだと問い詰めたいが、そんな日新斎の教育に少しふれる事が出来るお話です。

前回の話を見れば分かるようにとっても悪ガキだった日新斎。だが結果的に何だかわからないけど褒められた前回とは違い、今回はしっかり捕獲されてお仕置きを受けました。それは柱に縛り付けられて説教を受けるというもので・・・うん、本当にそこまでされるほど何をしたんだという。これはお寺の教育が激しかったのか、日新斎の悪ガキっぷりが凄かったのか判断が難しい所でもありますね。

因みにこの柱、今もちゃんと現存しています。一時寺とともに焼失しましたが、お寺の再建された時に日新斎が縛られた位置にあった柱を日新柱と名付ける事にしたそうです。島津の歴代藩主はこの柱に接して育ちつつ、戒めとしたと言われています。現代でも伊作小学校の教育の戒めとして飾られており、町指定の文化財となっています。

因みに息子が柱に縛り付けられて説教を受けたと聞いた常盤夫人は「息子は良い師をえた」と涙を流して喜んだと言われていますので、もしかして家にいるころから母親の手に負えない悪ガキだったのかもしれませんね。

皆さんはお母さんやお父さんの手を焼かせて柱に縛り付けられたり、薙刀を振り回されて追いかけ回されたりしないようにしようね!

島津日新斎・幼い頃

さて母・常盤夫人により熱心な教育を受け、後になんやかやで本家を乗っ取る形で島津家をまとめ上げた島津忠良こと島津日新斎。彼は息子の島津貴久と共に「島津家中興の祖」と称えられています。そんな島津日新斎ですが、幼い頃は教育の為に母常盤よりお寺に預けられていたようです。上杉謙信もそうですが、この当時、言う事を聞かない子をお寺に預けて性根を叩きなおして貰う教育をして貰う事は良くある事です。

ですが上杉謙信同じく、島津日新斎も結構な悪ガキだったらしくお寺の僧達は手を焼いていたようで。

上杉謙信はあまりに手がかかり、何度説教をしても聞き入れないので一度預けた寺から返却されるという事がありましたが、こちらはもっと上を行きます。お寺の対応が。

まぁ悪ガキだった日新斎。勉強をさぼったり暴れまわったりしていたのですが、それを見たお坊さん、すっと手に取ったのは薙刀。

「この悪ガキどもが―――――!!!!!!!」

次の瞬間薙刀を振り回し子供達を追いかけ始めた。いやはや九州の坊さんはやる事が違うぜ・・・!まぁ泣きわめいて逃げる子供達。だが日新斎は逃げずに立っている。なぜ逃げないかと問いかけると「履物が無いから逃げられない。とってきてくれ」とのこと。

この言葉にお坊さんは「これこそ正に武家の子!」と感動したと言われています。アレー?

常盤夫人、我が子の為に

夫、舅と次々に亡くなってしまった島津家で、常盤は幼い我が子の代わりに島津の名代をします。息子の日新斎、忠良は幼さゆえにまだ当主として認められていなかったのですね。常盤は幼い日新斎に日々、帝王学をたたき込んだ事でしょう。その日新斎も、幼い頃は結構な悪ガキだったようです。

そこで常盤に思いもよらない申し入れが飛び込んできます。夫・善久の従兄弟であった相州島津氏・島津運久が結婚の申し入れをしてきたのです。運久はかなり常盤に惚れこんでいたようで、常盤を妻にしたいあまりに邪魔になった自分の正室を焼き殺してしまった、という激しい逸話も残っています。常盤は亡き夫に操を通すためか、これを一度は拒絶します。

ですが常盤も少し考え直して条件を付けて運久の結婚の申し入れを受ける事にします。それは「相州島津家の跡を、息子である忠良に譲ってほしい」という事でした。運久はこれを二つ返事で受け、常盤を妻にします。そしてその後、何の蟠りもなく忠良はその跡目を継ぎました。そして相州島津家と伊作島津家の合併が此処になりました。

その後、忠良、日新斎はこれを足掛かりに島津本家を乗っ取っていく形になったのです。常盤は島津家の建国の母という訳ですね。母は強し、です。

また常盤の出身である新納家も優秀な人材が多く、合併島津家となった後も多くの優秀な武者を出しています。

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南海の真珠

島津日新斎の母、常盤夫人は新納家出身の娘でした。常盤夫人は女性の身でありながら論語等の書物に通じ、南海の真珠と褒めそやされるほどの美貌を持った人物です。その常盤夫人の夫になったのが伊作島津家の善久でした。善久は婿として新納家に入り、夫婦は仲睦まじく過ごしていましたが、その日々は突如終わりを迎えます。

日向の国にあった城をめぐって両家は対立を激しくし、遂に実の父親とは戦えないと判断した善久は「伊作へ返るか、切腹を許して欲しい」と常盤の父・新納是久に申し出ます。それに対して是久は余計なトラブルを避けるため、善久の伊作への帰郷を許しました。

本来ここで常盤と善久は離縁して終わりだっただろう話ですが、常盤は善久との離縁を頑なに拒否。説得を試みようとする父是久に「夫婦は共にあるものです」と言い放ち、善久と共に伊作島津家へと行ってしまいます。娘の正論に父は何も返せなかったのでしょう。その後、常盤は伊作の地で待望の男児を産みます。これが後の島津日新斎ですね。この時が、南海の真珠夫人、常盤の幸福の絶頂だったのかもしれません。

ですがその二年後、夫の善久は配下の逆恨みで殺されてしまいます。そして追い討ちをかけるように義父の島津久逸も同族の島津忠興に攻められ、討死してしまいます。常盤は幼い子供を抱えたまま、嫁入り先で頼る人もいなくなってしまいます。

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南九州では

さて今回から再び九州動乱へ。北九州で大友家が中国地方の毛利家介入でドンパチしている時、南九州では島津家が台頭していきます。元々島津家は守護職といって、南九州を治める役割を担っていた名家でもあります。

ですがこの台頭していった島津家は本家ではなく、元々は分家の立場にすぎなかった家なのです。

戦国時代では各地で動乱があった事はもう周知の事実ですが、もちろんこの南九州でも激しい動乱が起こっていました。小さな家同士が争い、戦っていたんですね。各地で小勢力が台頭していったものですから、争いに巻き込まれて島津家も一度は衰退の道をたどります。ですがここで現れたのが島津忠良こと、島津日新斎その人です。彼の力により、島津家は元の力を取り戻していくのです。もちろんこうやって跡継ぎが決まっていくとやはり起こるのが跡目争いなのですが、合戦やら外交戦やら色々な戦いを経て島津家は日の本に名高い名家へと登っていくのです。

しかしこの島津日新斎(出家名)、分家の立場の人間だった彼がどうやって本家を相続するに至ったのか。そこには色々な大人の事情と、思惑が入り乱れています。次回はこの件について少し触れていきましょう。ではお楽しみに!

 

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