有馬家援軍要請での裏話

さて島津家は有馬家への援軍に島津家久を派遣しますが、この時島津家久を派遣するに至った経緯の逸話があります。

有馬家へ援軍を出す事を決定するも、どのようにするか決めかねている島津義久が相談に呼んだのは島津では鬼武蔵(まともな方)の呼び名が高い、新納忠元でした。送れる兵は寡兵、その場合の大将は島津義弘か島津家久。この二人のどちらがいいか問いかけた主に、忠元は即座に回答。

「義弘様は「耳臆病、目かいがいしい大将」。家久様は「耳かいがしく目臆病な大将」。今回送られるのは家久様にすべきです」

何だか意味不明な言葉ですが、忠元の言葉を受けた義久は総大将に家久を派遣しました。が、これが面白くないのが島津義弘、兄の自分の何が劣っているのかと忠元に直訴。しかしこれに忠元歯に衣きせず、

「逆恨みも大概にして下さい。私は私情を交えずお家の為を思って言ったまで」

この物言いに義弘も何も言えずに黙ったそうです。

おそらく忠元の言い方からすると耳を情報、目を実際の戦場、臆病を慎重、かいがいしいを積極ととり、

義弘は事前情報より戦場での直感を重視した天才肌の指揮官

家久は事前の情報重視し、戦場では慎重な采配を選ぶ指揮官

と言ったところでしょうか。さてこの鬼武蔵(まともな方)の采配やいかに?

木崎原決戦

一時撤退して態勢を整える伊東軍は白鳥山に登ります。しかしそこには既に義弘の手の者が回っていました。僧侶と農民ら300人が太鼓を打ち鳴らし、幟を立てて騒ぎ出した。これを伏兵と慌てた伊東軍に義弘は別働隊を後方に回らせ一度自身も正面から突撃を試みるもこれには敗北。

しかしその後態勢を立て直すのは流石武勇の義弘、伊東軍の予想をはるかに超えた早さでした。そして後方からの攻撃に加え、伏せていた兵の攻撃。島津家お得意の戦法「釣り野伏せ」です。伊東軍は必死に撤退するも、丁度ここに援軍として現れた新納忠元の150騎らに悉く打倒されることとなります。

結果としては島津軍の勝利として終わるも、敵味方同様に被害は甚大でした。ここが織田信長の桶狭間の戦いとは違う所ですね。この戦いで伊東軍は幹部クラスの武士を多く失った事もあり、後々の伊東家の衰退につながっていったと言われています。対して島津側も8割近い兵を失い、付近の積み重なった兵士の遺体を片付けるのに四カ月もの時間を朗したとか・・・。この時、義弘は近辺に地蔵塔を立てさせ、敵味方関係なく戦死者の弔いをしたと言われています。それほどでに激しい戦いだったのでしょう。

これにより伊東家は衰退していき、肝付家より早く崩壊を迎えます。そして肝付家もまた島津家に敗退を続け降伏。島津家は南九州に名だたる大名になっていくのです。

九州

夢のお告げと膝突栗毛

さて今回は恒例のちょっとした逸話です。木崎原の戦いの前、島津義弘は変な夢を見ました。自分の乗っていた馬が足を折る、というものでした。夢の意味を僧に問いかけると、それは次の合戦で勝つ吉兆だと言われました。

馬が足を折ると乗り手は歩く事になる。歩く事、即ち徒歩。「徒歩(かち)」という意味だそうな。そして夢のお告げが当たったのかは知らないがこの戦いは驚くほどの劣勢を島津が覆していく事になります。しかしその戦いの中、義弘は伊東軍の武士と一騎打ちをする事になりました。

その最中、相手の槍が義弘を捕らえました。しかしその時!義弘の乗っていた馬が空気を読んで足を折って座り込んだので義弘は窮地を脱し、見事一騎打ちにも勝利する事が出来ました。(諸説あるので、相手に槍が届かなかったので馬が足を折ったなど色々あります)

馬でも空気読めるのに黒田官兵衛ェ

義弘は自分の危機を救ってくれた子の馬を「膝突栗毛」と名付けてとても大切にしていたそうです。義弘の生涯52回の戦いの内20回余りをこの愛馬と共にしたそうな。大切にされた膝突栗毛は86歳まで生きて今も鹿児島県にその墓が残されています。

そしてこの膝突栗毛は雌だったそうで。薩摩の女子は馬まで強い。そんな島津義弘の愛馬のお話です。

池島川での一騎打ち

3000人の兵を率いて島津義弘の城を襲った伊東兵。二手に分かれ一方は兵が50人しかいない義弘の妻子が籠る加久藤城を狙うも、夜の闇になれていなかったのかご自慢の青年部隊が若すぎて不慣れだったのかはたまた事前情報が良く伝わって無かったのか、間違えて別の屋敷を攻撃。手痛い反撃を食らった上に無駄な時間を浪費、挙げ句に断崖すぎて上手く進めない間に弓矢鉄砲(があったかどうかは知らないが)で会釈をされて被害甚大になって敗走。頼りの相良兵は義弘の立ててあった旗に敵援軍が来たと勘違いして帰ってしまった。こんなグダグダな戦いをしつつ、別働隊大将の伊東祐信は池島川まで下がって休息を取っていました。

ここで兵の多さが災いしたのかどうかは知らないが、油断と蒸し暑さで川で水浴びをする者達が沢山いたと言われています。さてそれを予め放っておいた斥候から聞いた義弘はすぐさま出陣。自ら斬り込んでいって沢山の武士を討ち取りました。ここで大将の祐信は義弘に一騎打ちを申し込みますが、今一歩と言う所で義弘の馬が槍の穂先を交わして討ち取りそこね、逆に敗北してしまいました。この一騎打ちの相手は柚木崎正家と言う説もあります。

さて義弘はここで一度引き、ほうほうの体になった別動隊は本体と合流して決戦へと向かいます。

九州

加久藤城攻防戦!

島津義弘が家臣により起こされたのは加久藤方面の夜空が炎で赤く染まっている時だった。伊東方による放火と、挑発行動です。ですがすでに間者を伊東領内に送り込んでこの行動を知っていた義弘の行動は落ち着いたものでした。戦の勝敗は戦う前から決まっているとは良く言った物です。

義弘は冷静に狼煙で急を知らせると兵60人を加久藤への救援に出し、40人を白鳥山野間口、50人を本拠地の古溝に伏兵として潜ませます。そして有川貞真に城を任せ、自身も130人の兵を率いて討って出ます。

さてその頃加久藤城へ伊東祐信は攻撃を開始していましたが・・・夜の暗さで間違って城ではなく、樺山浄慶の屋敷を攻撃してしまいました。ですが浄慶ら父子3名は大量の将兵がいるように見せかけながら伊東兵を攻撃、奮戦するも討ち取られてしまいます。がここで要らない労力と時間を割いた上に負傷をさせられた伊東兵。更に進むも狭い道を進んだ上に登り口は断崖で上手く進めず、弓矢や投石に苦しめられます。ここで加久藤城を守る川上忠智が討って出てきた上に、援軍に駆けつけられて祐信は退却を呼びなくされただけでなく、伊東軍の名だたる武将を討ち取られてしまいました。

伊東軍は相良軍の援軍を待って盛り返そうとしますが、事前に義弘が立てさせていた大量の幟旗を見た相良兵は島津の大量の援軍が来ていると思いこみそのまま撤退していったようです。

九州

木崎原の戦い

さてやってきました肝付軍に、島津ももちろん防御を固めて待ち受ける構えです。ですが肝付軍相手に軍を構えるという事は、伊東家・相良家同盟相手には少数の軍しかさばけないという事にもなります。

この時、伊東軍の人数は3000。ここに相良軍の援軍も加わって来る事も予想されています。それに対する島津兵はなんと300人。この時点で既に十倍の差が付いていますが、兵を率いるのは次男・武勇の義弘。後に日本だけでなく外国にまで名をはせる武将・島津義弘です。義弘は少数の兵を率いながらも臆することなく、最前線で伊東・相良軍を待ち受けます。

ここに九州の桶狭間、と呼ばれる木崎原の戦いが始まります。

さて伊東家の伊東義祐は人吉にいる相良義陽と密かに通じ、合戦に援軍を出す事の密約を交わします。そして深夜に伊東祐安を総大将として、伊東祐信らを対象にした青年武士団3000の兵が小林城を出立!翌日には軍は二手に分け、一方は島津義弘の居城飯野城を攻撃。もう一方は伊東祐信らが率いて義弘の妻子らが籠る加久藤城へ攻撃を仕掛けるべく進軍。この加久藤城は守兵が50名ほどしかいない手薄の城でした。

さてこの絶体絶命のピンチを島津義弘は切り抜けられるのでしょうか?桶狭間って言ってるんだから勝敗が分かるとか言っちゃだめ

 

九州

島津四兄弟

さて、話は島津日新斎の息子貴久から、その息子である島津義久に代替わりした所まででしたね。しかしまだ肝付、伊東、相良家との戦いが終わった訳ではありません。寧ろ貴久の死によりこれを好機と言わんばかりに同盟軍は島津家に襲いかかって来ます。

もちろん島津家も黙って滅ぼされる訳がありません。この時の島津家は、かの有名な島津四兄弟が一丸となって島津家を支えています。

長男・義久。次男・義弘。三男・歳久。四男・家久。

四人合わせて島津四兄弟。戦国の世には珍しく仲の良い兄弟でありながら、それぞれとても優秀であった事でも有名です。祖父の日新斎曰く、「次男義弘は武勇に優れ、三男歳久は知略に優れている。四男家久は軍略で並ぶ者なし、そして長男の義久はこれら兄弟を使いこなす才能に長けている」という絶賛っぷり。男ばっかり四人もいてそれぞれが個性を出して各々の方向にチート(その上自分の得意分野以外にもそれぞれ秀ている)、なぜ父の島津貴久が戦国の世のサンデーサイレンスと呼ばれたかは分かる人にはわかるでしょう。

このチート四兄弟が一丸となって強大な同盟軍にどう立ち向かっていくのか、次回からはそこを進めていきますのでお楽しみにお待ち下さい。

九州

廻城攻防線における、少し悲しい話1

前回までのお話で廻城攻防線・島津家と肝付家の争いの話を書いてきましたね。今回はその中で亡くなった、島津日新斎の息子であり、島津貴久の弟・島津忠将と尚久のお話です。

次男・忠将は貴久の六つ年下、三男・尚久は貴久より十七歳も年下で、貴久の息子・義久より二つ年上だったそうで。尚久は貴久、忠将と母親が違いますので年齢に差が出ているようです。そんな尚久は兄の子である義久・義弘と日新斎のもとで兄弟同然に育てられておりました。

忠将は薩摩大隅の領内統一戦に於いて、ほぼ全てに参戦し、武功を上げた勇将。兄である貴久を良く補佐し、戦では常に最前線に立ち続け、初期の戦国時代における島津家を支えたのは武略に優れた忠将だったとまで言われています。この貴久と忠将の兄弟関係は、後の義久と義弘の関係にも大きく影響を与えているのです。

さて尚久の方はと言うと、こちらも各地を回って統括などと色々働いておりました。甥達と同じ教育を受けているところ、後の島津四兄弟の関係を見ると、異母弟でも兄達との仲は良かったのでしょう。年を取って出来た子ほど可愛いように、日新斎はこの三男をかなり可愛がって育てていたようです。

ですが運命の戦が来てしまいます。

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