あにうえとおぎいまる

さて長かった鬼武蔵のお話も前回で終わり、そろそろ新しい話に移りますがその前に一つ小話を。

徳川家康は秀吉との和睦の際に人質として息子・於義丸(於義伊丸)を養子に出します。この於義丸は秀吉の養子になり、成長して秀康と名乗った後結城家にまた養子に出され結城秀康の名で知られる人物となります。

さて彼、結城秀康にも色々な逸話がありますが、有名なのは彼の出生についての逸話です。彼は可哀想な事に父親、家康に認知して貰えずにいました。理由は諸事情あるのですが、そんな彼を可哀想に思った兄の信康は家康を自らの城に呼んで於義丸と対面させて、逃げようとする家康の裾を抑えて半ば無理矢理に父親と認知させたと言われています。

元々於義丸という名前も兄である信康がつけたとも言われているので、於義丸にとって信康は兄であり父親代わりの人物だったのかもしれませんね。ですがその信康は織田家が甲斐武田家との戦いの際に、信康の母親築山殿と共に武田家との内通を疑われ切腹に追い込まれています。事実、この内通は本当だったかは分かっていません。

その後、二度も養子に出された揚句に、比較的早くこの世を去った結城秀康ですが、彼は今生をどう思っていたのでしょうか。幸いな事に彼自身は徳川の跡目を継いだ腹違いの弟・秀忠との兄弟仲は比較的良好だったようなのが、せめてもの救いであったと思われますね。

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十万石の首

今回は小牧長久手の戦いでとある活躍をした徳川の武将、榊原康政のお話です。

榊原康政は小牧・長久手の戦いの際に戦場のあちこちにとある文章を書いた立て看板を設置して回った。ここにはとても達筆でこう書かれていた。

「それ羽柴筑前は野人の子。馬前の従卒。君恩忘れた悪逆の徒なり」

織田信長の子である織田信雄と戦う秀吉、主家である織田家を乗っ取った事を誹っての言葉である。だがこんな悪口を達筆で書かれた日には秀吉は大激怒した。激怒した秀吉は将を集めこう言い渡した。

「榊原康政の首を上げた者に十万石を与える!」

こうして榊原康政の首には十万石の値段がついたのである。かなりのお値段である。

因みにその後、徳川と羽柴は講和を結ぶ事になって小牧長久手の戦いは終結する。その際に家康のとりなしもあって、康政は秀吉に許される事になった。そして秀吉に勧められて館林城主になる事になる。

この館林城主となった康政の石高は十万石であった。

達筆で悪口を書きまくり、その悪口を言った相手のおかげで見事十万石を手に入れる事になった康政のお話。正に芸が身を助けたというか、世の中何がどうなって幸運が舞い込んでくるかは分からない、というお話です。でも皆さんは人の悪口を書くのはやめましょうね。事実でも罪に問われちゃいますからね。

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家康の講和とその後

小牧・長久手の戦いで巻き込まれ、最終的に秀吉と講和する事になった家康ですが、この際に彼は息子である二男・於義丸を養子と人質を兼ねて差し出しています。この於義丸が後の結城秀康となる人物ですが、ここでは割愛します。こうして小牧・長久手の戦いは完全に終わりを迎えます。

その後、余計な戦を招いたとして織田信雄の織田家内での評価は著しく下がってしまい、家康もまた秀吉に心中せざるを得ない状況になっていきます。そして秀吉は味方でありながら一番恐れていた鬼武蔵も家康方に討ち取られてしまったので、ほくほく顔で天下取りへと駒を進めていく状況になっていきます。戦は徳川の優勢だったのに、終わってみれば秀吉の独り勝ちですね。ですがこの戦の事で、家康は野戦上手と言われるようになります。これは後の関ヶ原にも繋がって来ます。

さてこの時、織田家の武将でもあった佐々成政が越中さらさら越えと呼ばれる雪山行軍で家康に打倒秀吉を持ちかけるも断られ、虚しく再び越中行軍するという事態がさりげなく起こっています。この事態が後の佐々家のお家断絶フラグになっていたとは一体誰が気付いていたのか。

これにて長かった小牧・長久手の戦いはお終いです。次回からはちょっと寄り道して、この戦で起こった色々な出来事と、武将達の逸話を紹介していきましょう。

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戦の終わりと講和

長く続いた小牧・長久手の戦い。戦況は織田信雄、徳川家康の方に有利でした。ですが予想外の事態が織田方に起こります。

伊勢の方で誅殺された重臣の一族らが造反を起こしたのです。この件に関しましては、以前の記事を見て下さいね。ともあれ起こった造反に秀吉も計略を重ねます。この造反の勢いに乗り、九鬼嘉隆、秋山直国らも謀反。信雄方は始終劣勢を強いられました。そこに羽柴秀長ら別働隊が軍を率いて信雄の領地である伊勢・伊賀に侵攻して領地を占拠。その上伊勢湾に水軍を展開。ここまでされると何ともふるぼっこ状態と言わざるを得ません。そして秀吉は信雄に講和を申し入れ、精神的に弱ってしまっていたのかこの講和を受け入れてしまいます。

その条件は秀吉側へ伊賀国と伊勢の半分を譲る事。最初こそ有利であったのに、まさかこんな条件を飲む事になるとは誰が予測した事でしょうか。とにかく信雄はこの条件を飲んで講和してしまいます。

その後、信雄が戦を止めた為に家康は大義名分を失い、此方もまた秀吉と講和する事になります。巻き込まれる形で戦を始めて、頑張って有利に進めていたのにこの仕打ちはあんまりと言わざるを得ません。こうして小牧・長久手の戦は終結します。

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家康・秀吉の直接対決

小牧・長久手の戦いと言えば徳川家康、羽柴秀吉の戦いだという事は皆さん結構ご存知の話ですね。ですがこの戦いでは、実際には家康と秀吉は直接対決はしていません。

森、池田隊の壊滅により勢い付く徳川に対して、ある意味ちょっとホッとしてしまった羽柴方。二つの軍の敗戦より少し前に秀吉は小牧山城へ攻撃を仕掛けますが、これは敗退。武力偵察の攻撃だったのか、秀吉は早めに陣を引きます。その後知らされた白山林の戦いの敗戦の報告により、秀吉は戦場近くの竜泉寺にて急行。ですがこの動きを僅かな手勢の身で徳川の勇将・本田忠勝が妨害しています。

その後、家康が小幡城にいるとの報告を受けて翌日に小幡城を攻撃するも、実は夜の間に家康は清州城に撤退していました。暫く経ってこの報告を聞き、秀吉もまた大阪城に帰還しています。このように軍の小競り合いこそあれど、実際に家康と秀吉は対峙していなかったんですね。川中島の戦いでも有名な武田信玄、上杉謙信も実際に手合わせした事は一度きりだったと言われています。これは大将同士の直接対決ですが、家康と秀吉の場合は完全にお互いの軍を率いて対峙した事はなかったんですね。

さて長く続いた小牧・長久手の戦い。これは意外な結末を迎えます。

 

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長久手の戦い

さて、前回からの続きです。徳川陣と背後を突かれて戦う森&池田隊。両軍入り乱れて行われる対決は正に死闘・死闘・死闘!一進一退の目の離せない戦いは二時間にも及んだと言われています。が、その戦況はとある人物により動きます。

森長可・討死。徳川の鉄砲隊により、眉間を撃ち抜かれての討死でした。

信長により長い間、寵愛を受けてきた森長可こと鬼武蔵はこの地にて最期を迎えます。彼についての話は沢山有り過ぎるので、また別の機会にいくつか語ります。この均衡した戦いは長可の死によって徳川に大きく傾きました。娘婿の討死を聞きながらも池田恒興、必死に立て直しを図りますが、永井直勝の槍を受けて此方も討死しました。恒興の嫡男である池田元助も安道直次によって討ち取られます。この時池田恒興は家臣に父親、兄共に戦場を離脱したと説得されて自らも戦場を離れました。このおかげで何とか池田家は続いていきます。持つべきは状況判断が的確な家臣です。その後二つの隊は散り散りになり逃走をしたと言われています。

戦いは徳川陣営の大勝利にて幕を閉じました。この戦いの名が長久手の戦い、または特に仏ケ根の戦いです。後にこの戦いは小牧・長久手の戦いとして有名になります。

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徳川・池田森激突!

池田恒興、森長可の隊に徳川本体が後方より出現したことが伝わり、緊張が走ります。両将は大慌てで退却を開始するも、家康は堀秀政の隊に敗れた榊原康政の隊を組みこんで陣を構えました。

徳川は右翼に家康3300。左翼に井伊直政3000。そして織田信雄勢3000。

対する池田隊右翼に池田元助・池田輝政4000.左翼に森勢、後方恒興で喘合計9000。

数の上だけで言うと両隊はこの時、ほぼ互角と言っていい状態です。

ですがこの時徳川の陣は高所に陣を構え、斜面に鉄砲隊を三段構えに配置対する池田勢は湿地に陣を構えての戦いと、不利な状態になってしまいました。戦場において重要なのは地の利です。池田隊は完全にその地の利を奪われた状態で徳川勢との戦いを余儀なくされてしまったのです。両隊の激突は死闘をくり返し、一進一退の状況で二時間にも及ぶ時間の戦いとなったと記されています。

所で鉄砲の三段構えと言うと何かを思い出しませんか?そう、織田信長の長篠の戦い、武田騎馬軍への攻撃もまた、鉄砲三段構えでした。因みに元織田家の重鎮である池田家、森家共に鉄砲の名手が多かったとも言われています。そう考えるとこの戦い、何か因縁めいたものを感じてしまいますね。

さてこの戦い、とある人物により一気に戦況が動きます。

 

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家康の分断策

さて、小牧・長久手の戦いの内の見せ場でもある家康による羽柴秀次軍の奇襲が行われました。これによりこの隊の総大将である秀次陣は壊滅し、ほうほうの体で逃げだすまでに至っています。そして勢いに乗って徳川勢は堀秀政隊と戦うも、此方は名人久太郎と呼ばれた戦名人が相手。これには徳川陣は敗北してしまいます。

これを見た家康、自分は隊を率いて長久手の地を見渡す事の出来る色金山に陣を構えます。そして秀政の後方の御旗山と呼ばれる高所へと進軍して、秀政の軍と池田恒興・森長可が率いる軍勢の間を分断する作戦に出ました。無理に敵に当たらず、策を用いて敵を分断する作戦に出るとは家康も流石、後に天下人となる器量の持ち主です。

ここで秀政は家康の馬印を見て、戦況の不利を悟って兵を引き上げたとされています。引き際もわきまえている所が戦上手たる所以ですが、この事を後に批判した文章が残っているのもまた事実です。その件は前回にもご紹介しましたね。

さて、これでピンチに陥ったのはこの家康の隊により後続と分断され、背後から攻撃を受ける池田恒興・森長可部隊です。この二人実は長吉の妻が恒興の娘なので、婿舅関係に当たります。ここで窮地に立たされた婿舅、二人はどうなってしまうのか。

話は次回へと続きます。

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白林山の戦い

さて前回では岩崎城の丹羽氏重の挑発にまんまと乗せられた池田恒興勢。城攻めに時間を費やしただけでなく、やや被害も出てしまい一行の進軍も遅くなります。羽柴秀次もこの後軍を待つためしばし動きが止まります。

その背後に迫るは徳川陣。こう考えると岩崎城は落ちてしまいましたが、丹羽氏重は徳川方にとってとてもよい働きをしたのですね。徳川家ではこんな話が追いように思えます。(因みに氏重、この時16歳です)

羽柴軍は先方が挑発に乗ってしまった先方隊が池田恒興隊、最高峰にいたのはこの軍の総大将である秀吉の甥、羽柴秀次勢です。そこに突如として襲いかかるは徳川方の軍。この時先の戦で城を枕に討ち死にした丹羽氏重の兄・丹羽氏次もこの軍に同行していました。

おそらく気の緩みもあった中、背後を取られていきなり現れた徳川方の奇襲、混乱の中にダメ押しのように側面から榊原康政率いる隊が激しい銃撃を打ち寄せます。この時羽柴秀次は自身の馬を失い、共の馬を借りてほうほうの体で辛くも逃げ出しました。この際に彼を逃がすため、木ノ下一族が幾人も討ち死にしたと伝えられています。

この戦の名が白山林の戦い。羽柴方、特に羽柴秀次らにとっての手痛い敗戦となった戦です。

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岩崎城の戦い

 

さて、お互いに動きを悟られぬように息をひそめながらの戦が始まります。

徳川家康は羽柴秀次勢が篠木・上条城周辺に2泊ほど宿営していた頃に、近隣の農民や有名な忍び集団・ご存知伊賀衆らから情報を得て、秀次らの動きを察知。翌日に小幡城へと入ります。その夜には素早く陣立てを取り決め、夜が明ける間もなく榊原康政ら諸将に秀次陣へ追撃を行わせます。これに合わせて家康、信雄も出陣!士気を上げる事も忘れていません。

この日、池田恒興勢が丹羽氏重らが守護していた岩崎城へ攻撃を開始します。氏重らは懸命に闘うも、落城して玉砕してしまいました。これが岩崎城の戦いです。この氏重の兄である丹羽氏次は、榊原康政らと共に秀次らの追撃を行う軍に同行していました。

しかしこの岩崎城攻め、実は池田恒興が敵の挑発に乗ってやってしまったものという通説になっています。氏重勢は池田勢に挑発として銃撃をしかけたのですが、これに恒興大激怒。なんと奇襲中だという事を完全に忘れて、岩崎城攻略を行ったとされています。

そして羽柴軍は休息して進軍を待ちますが、その背後に徳川軍が迫っている事を知らないのでありました。

いやはや、しかし大事な戦の最中に別の城を落そうというのはある意味死亡フラグだと、この頃から分かってたんですねぇ。

さて、背後に迫る徳川陣。彼らはどうなるのでしょうか。

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