死ぬまで渡れない川

さて小早川家を手中に収めた毛利元就、安芸での力を磐石化させて天下に名乗りを上げるのか・・・・そう思われた矢先に、元就を意気消沈させる出来事が立て続けに起こります。

元就最愛の婦人とも言われる糟糠の妻であった妙玖夫人と、実の母のように慕っていた大杉方が相次いでなくなってしまったのです。これには元就も相当応えたようで、妙玖夫人が亡くなった時には髪が真っ白になって49日があけるまで惚けたようになってしまっていたという逸話まである程です。結婚して十数年、戦と戦乱に明け暮れ子供たちは人質や養子に出して心休まる日々がなかった元就にとって、その間ずっと傍にいて支えていてくれた妙玖夫人の存在とは例えようもなく大きなものだったのでしょう。元就はある時、このような歌を詠んでいます。

待えたる かひも涙の ふる雨に 逢せへたつる 天の川浪

待ちに待っていた甲斐もなく涙のように降る雨は二人の出逢いを無情にも隔てる天の川の波のようだ。これは会えなくなった織女と牽牛の二人の悲しみの涙雨なのだろうか。それとも彼らのように離れ離れになった私と妻の二人の悲しみの涙雨なのだろうか。

七夕の日に雨が降ってしまい、妻を思い出して涙を流す元就の姿は謀神のロマンチストな一面を感じさせてくれます。仕方ありませんね、三途の川は天の川と違って死ぬまで渡れることはありませんから・・・

謀神を育てた女性も、支えてくれた女性も失ったことに堪えた元就は隠居を決意します。

元就の母

毛利元就がある時、息子隆元にこんな思い出を語り始めました。

「私は5歳の時、母が死んだ。10歳の時、父が死んだ。11歳の時、兄の興元が大内義興に従って京に上った。その時私の周りに肉親は全くいなくなり、みなし子のように一人ぼっちで生きていた。そんな私を哀れに思ったのが、父上の側室であられた杉大方殿であった。彼女は一人にするのはかわいそうだと、私を自身が育てられるとおっしゃってくださった。あの頃杉大方殿はまだ年も若く、父上との間に子も無く、実家に帰るのに何の差し障りもなかったのに、ただ、血もつながっていない私のために、この吉田に留まり育ててくださったのだ。杉大方殿は私を育てたためについに再婚することも無く、その生涯を終えられてしまった。私は兄・興元が京から帰ってくるまでの3年間、大方殿の側を離れること無く、暮らしていたものだ・・・・」

これこそ元就が生涯、実の母のように大切にした杉大方殿についての回想です。

杉大方は元就が家臣に城を奪われ追い出された時も共にいて育ててくれたそうで、この時元就に朝日を拝む念仏信仰を教えました。この事がきっかけ手元就は息子達にも朝日を拝むように、と言いつけてあります。彼女の存在は元就にとってかけがえのない存在だったのでしょうね。

 

乞食若殿

毛利元就は安芸の国人領主・毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生しました。幼名は松寿丸。これは黒田官兵衛の子供、黒田長政と同じというマジック。(あんまり関係ない)

毛利家の先祖は朝廷や鎌倉幕府に仕えた政治官僚で、軍学者でもあった大江広元です。大江氏は源氏平氏にも負けず劣らぬ名門なのですが、その一派である安芸毛利家は室町時代には衰退して、安芸の小領主という立場にまで落ちぶれていました。しかも毛利家は当主の夭折や急死が相次いでいたため重臣達が強権を振るい、横領や恣意的政治が横行するなど毛利家家中は大変な事になっていたのです。

因みに元就の祖父・豊元、父・弘元、長兄・興元ら全員が20代~30代で夭折しています。この若死にの連鎖により、家臣の中には毛利家が呪われていると思う者達がいたようです。

さて明応9年に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲り、幼い元就は父に連れられて多治比猿掛城に移り住みました。翌、文亀元年には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年に、父・弘元が隠居してから逃げるように飲むようになった酒が原因による酒毒が原因で死去。

元就はそのまま多治比猿掛城に住んでいましたが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまいます。この境遇から元就は「乞食若殿」と貶されていたといいます。いやはや、あの謀神にもこのような過去があったとは驚きですね

この困窮した生活を支えたのが養母であり、父の継室であった杉大方で、元就はこの杉大方の影響を受けて育っていく事になるのです。

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