海賊衆の幕切れ・後

後の世に生きている私達からすれば、歴史好きな人達からすれば村上元吉の取った行動がいかに見通しが甘く、おっそろしい行為であるかは分かるのですが・・・残念ながら当時の人々には分かりません。そもそも分かっていたらこんな行動は取らないだろうと言うものです。

さて村上水軍らの糾弾を行うも、埒のあかない状況になってしまいました。これに業を煮やした秀吉、翌天正16年3月ついに腹を固めます。寧ろ誰かの腹を切らされなくてよかったと思う所です。

『能島の村上家は、小早川隆景の領国、筑前の加布里に転封を命ずる!』

こうして「日本最大の海賊」であった村上衆、通称村上水軍は、その本拠地である能島から引きはがされました。そして同年7月、豊臣政権は改めて海賊停止令を発令します。戦国の海に勇名を馳せた村上水軍の、あまりにあっけないその最後についての顛末です。この時元吉は一体何を思っていたのでしょうね・・・。

さてこの村上水軍ら、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地としますが、能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となりました。対して来島村上氏は江戸期に豊後国の玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられてしまいます。

海賊衆、誰よりも愛した海を奪われてしまう、というお話です。

海賊衆の幕切れ・前

村上水軍の話が前回出てきたので、それにまつわる逸話と話をご紹介しましょう。といってもタイトル通り、物悲しい内容なのですが・・・・。

時代は天正14年4月、大内氏も既になく時代の権力は豊臣秀吉に集まりつつあった時代です。秀吉は九州攻めに先立ち、瀬戸内海における海の関所を全廃。翌天正15年6月には、有名な『海賊禁止令』を発令しました。

ところが当時ルイス・フロイスから「日本最大の海賊」と呼ばれた能島海賊衆の頭領、村上元吉は、そんな事はまるで気にせず、能島海賊はその後も堂々と通行料を徴収していました。その後、6月下旬には秀吉に屈服し大阪に向かう薩摩島津氏の船からも通行料を取るという事件を起こしてしまったのです。

これには秀吉も激怒、村上元吉の行為を「言語道断の曲事」と糾弾します。しかしこれに村上元吉の取った態度というのが

「我々が通行料を取っているだって?そんなバカな!証拠はどこにあるんですか?」

すっとぼけです。秀吉の糾弾を知らぬ存ぜぬの一点張りで通しました。さらに秀吉子飼いの大名である戸田勝隆や福島正則を味方にして、自らの行為を弁護させました。どうも村上元吉、ぐだぐだと言い訳を続けていれば、大陸出兵の構想などから水軍を必要としている秀吉はそのうち折れざるを得ないだろう、と考えていたようです・・・・。