応仁の乱と和議・2

これだけ見れば武田家の大勝利かと思われますが、実際にはそうではありません。

その一方で京都の戦線では武田軍の苦戦が続いており、文明2年の勧修寺合戦で逸見真正の弟(嫡男とも言われている)逸見繁経が討ち死にするなど、多くの家臣を失ってしまいました。その上翌年早々、信賢の弟・元綱が独立を図り、西軍へ寝返っているなどのお家内での問題もありました。

これらの心労が祟ったせいか同年6月、信賢は急逝。急遽その弟である武田国信が後を継ぐという状態になりました。この頃細川勝元・山名宗全の両軍の大将も没し、両陣営ともに厭戦気分が漂い始めます。

そして文明6年の4月、細川政元・山名政豊の間で和議が成立します。大内氏のように和議を認めず、戦闘を継続するものもいましたが、多くの大名は和議に参加しました。一説によるとこの和議の仲介役となったのは、武田国信であったといいます。

実弟が敵陣営に寝返った事により、領国経営が深刻な状況に陥っていたのかもしれません。そう考えると、もしかした国信から進んで仲介役となったのでしょうか。

ともかく、この和議はなんとか成立し、国信もやっと落ち着くことができた

 

 

・・・・・・・・・ように、見えたのですが。

応仁の乱と和議・1

今回からは武田信繁の家、武田家の逸話をご紹介します。これは特に元繁の父・元綱に大きく関わってきている、武田家の話です。

さて時は戦国時代の前、室町時代の初期。若狭の国は一色氏が四代に亘って守護職を務めていました。しかし、永享12年一色義貫の時、将軍足利義教の忌諱に触れて義貫は出陣先の大和国で謀殺されてしまいます。将軍の命を受けて義貫を殺害した人物こそ、安芸分郡守護の武田信栄、武田元繁の父・元綱の兄である人物です。信栄はこの功によって若狭守護職を賜りましたが、義貫謀殺の際に受けた傷がもとでまもなく死亡してしまいました。

さて武田家はその後、信栄の弟の信賢が継ぎ、逸見、粟屋、内藤、山県といった家臣団を引き連れて本格的な若狭統治を開始します。家臣団の中、逸見氏は若狭国西部に当たる大飯郡の郡司を務め、仇敵一色氏が守護を保持した丹後国からの侵入に備えることとなりました。

武田氏の若狭入部から四半世紀が過ぎた応仁元年、応仁の乱が起こります。武田氏は東軍、一色氏は西軍に属し、それぞれその中核として戦うこになりました。この頃、逸見氏は逸見真正(入道宗見)が惣領を務め、武田軍の中心となって活躍しています。洛中の戦闘に参加すると細川氏と協力して一色氏の領国丹後への侵攻作戦を指揮するなど、活躍も見せています。

一色・山名連合軍との戦いは、幾度かの敗戦を交えながらも順調に推移して、文明元年には丹後全土をほぼ制圧するに至りました。この年、一色氏に代わり武田信賢が丹後守護職に任命されています。