戦国の異名と、魔王・終

「我は生きていた時は武田判官光和と名乗っておった。死んだ時の最後の一念によって修羅道に入り、魔軍八万四千を率いて天下の争乱を起し、仏法をあだとなし、猛火をもって全ての寺を焼き尽くそうとしている。達磨大師九年の修行ですらどうもすることはできない。ましてこの頃の一僧において何が出来るというのか。形こそは僧に似ているが、心は鬼の如く、身に法衣をつけているが、心は俗塵に染んでいるではないか。仏は太平の世の中のかん族であり、釈迦は乱世の英雄である。このような不都合なものがどうして我を降伏させることが出来ようか!」

言い終わるが早いかその男・武田光和は一口に僧を食おうと飛びかかりましたが、僧が即座に大声で「通心無影像!」と叫んだその一瞬、光和は合掌して何かを唱えつつ、跡かたもなく消え去りました。

この僧はこれはまことに不思議なことであると思って、ここに暫く逗留して光和の霊を弔いました。

その後このことを武田のゆかりの人たちに語ったので、彼らはやがてこの僧と供養をして、千部の径を書写しこの地に埋め、千本卒塔婆を造って追福を祈ったので光和の怨霊もようやく静まったと伝えられています。

武田光和、今項羽武田元繁の息子。死後に魔王になった男の逸話、これにて終幕です。

戦国の異名と、魔王・1

戦国時代の武将の多くは、異名で呼ばれる人物が多いです。甲斐の「虎」や越後の「龍」、「雷神」や「軍神」「鬼」などもそうですね。

しかしこれらは生きている内の自称であったり、後世の世であだ名されたものであるので、実際に虎だったり龍に変身したりしたわけでもありません。まぁ一人どう足掻いても鬼がいましたが退治されたのでノーカウントです。

例えば信長が第六天魔王を自称したことは広く知られていますが、自身が魔王だったわけではないでしょう。しかしその死後、本当に魔王になったと伝わる戦国大名がいます。

その人物こそ、安芸武田氏九代当主・武田光和。彼の父はその武勇を讃えられ「今項羽」と恐れられた武田元繁。そう、あの武田元繁の嫡男です。光和は元繁嫡子として(諸説ありますが、)1501年に産まれました。しかし驚くのはここからです。

なんと光和は生まれた時から33本の歯が生えており、また生後3日目になっても産声を上げないので心配して厳島の神主を招いてお払いをしてやっと泣いたと言われています。成長した三和は身長7尺余り(2.1メートル)、眼は逆さに裂け、顔にはたくさんの毛が生えており、きわめて大力で鉄の弓を用いたそうですが・・・この時点で人間かどうか疑わしい。失礼ながらリアルクリーチャーです。

応仁の乱と和議・1

今回からは武田信繁の家、武田家の逸話をご紹介します。これは特に元繁の父・元綱に大きく関わってきている、武田家の話です。

さて時は戦国時代の前、室町時代の初期。若狭の国は一色氏が四代に亘って守護職を務めていました。しかし、永享12年一色義貫の時、将軍足利義教の忌諱に触れて義貫は出陣先の大和国で謀殺されてしまいます。将軍の命を受けて義貫を殺害した人物こそ、安芸分郡守護の武田信栄、武田元繁の父・元綱の兄である人物です。信栄はこの功によって若狭守護職を賜りましたが、義貫謀殺の際に受けた傷がもとでまもなく死亡してしまいました。

さて武田家はその後、信栄の弟の信賢が継ぎ、逸見、粟屋、内藤、山県といった家臣団を引き連れて本格的な若狭統治を開始します。家臣団の中、逸見氏は若狭国西部に当たる大飯郡の郡司を務め、仇敵一色氏が守護を保持した丹後国からの侵入に備えることとなりました。

武田氏の若狭入部から四半世紀が過ぎた応仁元年、応仁の乱が起こります。武田氏は東軍、一色氏は西軍に属し、それぞれその中核として戦うこになりました。この頃、逸見氏は逸見真正(入道宗見)が惣領を務め、武田軍の中心となって活躍しています。洛中の戦闘に参加すると細川氏と協力して一色氏の領国丹後への侵攻作戦を指揮するなど、活躍も見せています。

一色・山名連合軍との戦いは、幾度かの敗戦を交えながらも順調に推移して、文明元年には丹後全土をほぼ制圧するに至りました。この年、一色氏に代わり武田信賢が丹後守護職に任命されています。

西国地方の桶狭間

まさかの熊谷元直の討死を知った武田元繁は大激怒。有田城に一部の兵を残して、自ら兵を率いて毛利・吉川連合軍に対応します。士気を上げた毛利・吉川連合軍は兵を進めてこれに対応、勢いに乗るべく篭城をしていた小田勢も有田城から討って出ます。しかし多勢に無勢、数で圧倒的に不利なのは間違いなく連合軍。押され始め、敗走をし始める連合軍を毛利元就は必死に鼓舞して、何とか踏みとどまらせます。

拮抗する両軍に元繁は苛立ち始めます。ついに元繁は馬を狩り、自ら最前線に向かいます。そして又打川を渡ろうとしたところで、これを待っていたとばかりに元繁に向かって毛利軍が一斉射撃を開始しました。これを受けた元繁、馬から落ちて川に転落し、敢え無く打ち取られてしまったのでした。この時元繁を討ち取ったのは、毛利軍の井上光政であったとされています。古今東西殆どの場合、どれだけ押していても大将を失えば戦は終わりです。元繁を失った武田軍は総崩れとなって今田城に撤退しました。

ここに中国地方の項羽、武田元繁はその終わりを迎えました。この時から毛利元就の名前が広く知られていくのです。圧倒的な兵力差を覆し、対象を討ち取ることでの勝利・・・この戦は、西国の桶狭間と呼ばれています。

 

新着

熊谷氏・吉川氏

さて始まった合戦は既に人数からして大きく違いました。武田元繁のもとには熊谷元直ら国人衆が集い、その軍勢はなんと5000。大群が大内方の城・有田城を包囲しました。これに対して毛利元就は自軍の150と本家からの700、そして吉川家の援軍が300・・・合計1150で対抗しようとします。

有田城へ進軍した毛利・吉川連合軍は、武田方の熊谷元直率いる500騎と対峙しました。連合軍は矢による遠距離攻撃で武田軍に対抗していましたが、此処で元就は挟撃を懸念し、熊谷勢に肉弾攻撃を開始します。しかしこの時元直は連合軍を少勢と侮り、終始正面からの攻撃しか行いませんでした。もしこの時、元就が懸念したように挟撃策を行っていれば・・・・いや、直接攻撃をしたことで元直も挟撃するまでもないと思ってしまったのかもしれませんが。

しかし戦国時代で相手を少数と侮るのは敗戦フラグです。戦いの最中に元直は前線に出て、兵を叱咤していたのですが、運悪く矢が彼の額を射抜きそのまま落馬してしまい、宮庄経友に首を取られました。元直が打ち取られたことで熊谷勢は勢いを失い、部隊は壊滅。ほうほうのていで逃げ出すようになってしまったのでした。

ここで名が出た吉川と熊谷。この二つの家はのちのち毛利家と縁深い家になっていくので、覚えておくと面白いですよ。

 

 

新着

有田合戦の開幕

1515年、京都から帰国した武田元繁は、大内氏の主力が不在の今こそが武田家の旧安芸守護職の権威を取り戻し、大内氏の従属から逃れる好機と見て行動を開始します。取り始め大内義興から監視の役目のように貰った妻と離縁。尼子経久の弟・久幸の娘と結婚して尼子家と手を結び、大内家から独立しようとしました。

これと同時に元繁は大内氏勢力内への進行も開始。元繁は内乱の続いていた厳島神社の神領を接収し、城兵の逃亡した大野河内城を取得しました。元繁はこの後に己斐城を攻めましたが、こちらは数ヶ月の包囲によっても落ちずにいました。

一方の大内義興は、武田方山県氏の一族である壬生氏・有田氏・今田氏を牽制するために山県郡有田への出陣を毛利興元と吉川元経に命じました。有田城を落とされたことで元繁は己斐城の包囲を解き、その矛先を北、山県郡の大内側の諸城へと向け始めます。

そんな中、毛利家の当主であった興元が1516年8月に死去し、わずか2歳の幸松丸が当主となりました。叔父であった毛利元就が後見役となるが、元就もこの時は20歳。毛利家家中は動揺し始めます。これに「項羽」元繁は動き始めます。

この時旧守護の武田氏の権威と「項羽」と謳われた武将・武田元繁を相手にするのは、小勢力の毛利氏や吉川氏に加えて、若年の元就では無理だろうと思われていました。その上主家の大内氏は主力を京都に引き連れていっているので援軍の派遣も望めない状況。誰もが元繁の勝利だろうと予測していました。

新着

有田中井手の戦いまでの経緯

今回は有田中井手の戦いに至るまでの経緯から見ていきましょう。

それは1508年の事。大内義興は足利義植を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従って上洛しました。一方、在京していた若狭武田氏当主であった武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持していました。この辺りから、既に嫌な予感が漂っていますが…これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなります。上洛した義興は義稙を将軍職に復帰させると、自身も管領代として京都に留まったのは皆さんご存知ですね。元繁もこれに従い駐留を続けていましたが、大内氏当主と主力が不在の安芸国では厳島神主家で後継者を巡って内輪もめが発生していました。

これに不安を感じた義興は、1515年にこの内部の乱れ鎮圧のために元繁を帰国させることを決定しました。しかし義興もまた元繁に不安を感じていたのかもしれません。この時義興は、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせています。おそらく、元繁の離反を防ぐためだったのでしょう。

しかし不安は的中、元繁は帰国後すぐに妻を離縁して、尼子経久の弟・尼子久幸の娘を妻として大内氏に反旗を翻します。元繁が尼子方から支援を受けたのも、こんな経緯があってこそなのです。

 

新着

中国地方の項羽

さて前回名前が出た武田元繁について説明していきましょう。その前に、中国の有名な武人である覇王・項羽をご存知ですか?項羽と劉邦でも有名なあの項羽は、智勇に優れた武将でありながらややカリスマ性に欠けたという評価を受けています。しかしその智勇の優れ方は並大抵のものではなく、「覇王」と呼ばれた所以のある人物です。

そして武田元繁もまた、この項羽に並ぶ人物という評価を受けています。(中国地方と中国大陸の違いがありますが…)

その元繁は武田元網の子であり、父・元網は安芸の守護代的立場であり、佐東郡・山県郡・安南郡を治めていました。

1493年、明応の政変が起きて管領・細川政元により室町幕府10代将軍・足利義植が追放され、新しい将軍として足利義澄が擁立されました。京都を逐われた義植は数年間の流浪の後大内義興を頼って山口に下向。この混乱に乗じて義興は武田領へ侵攻を開始したのです。さらに悪い事は重なるもので、1499年には家臣だった温品国親が離反して武田家中は大混乱となりました。毛利氏の支援等も受けた武田家臣の熊谷膳直の働きで国親の反乱は鎮圧されたものの、安芸武田氏はその後、大内氏に服属を余儀なくされました。武田家もまた、苦渋の判断を強いられたのでしょう。

その後1505年に父・元綱が病死した後、元繁は後を継ぎました。この経緯を見ると、元繁はいつか大内氏から独立を果たそうと思っていたのかもしれませんね。

 

 

謀神の初陣

さて父親も母親も早くに亡くしてしまい、兄は京都に上がって、城は部下にとられて…乞食若君と呼ばれるまで落ちぶれていた毛利元就。雌伏の時代を生き抜いた彼も、ようやく初陣を果たします。その戦いの名は有田中井手の戦いです。

有田合戦とも呼ばれるこの戦いは、永世14年に起こった戦いであり、この頃中国地方で力の有った尼子氏の援助を受けた武田元繁が吉川氏の居城であった有田城を攻めた事が発端の戦いでした。この武田氏の進行も、安芸国旧守護の勢威回復を目指していたというのが通説となっています。元々大内氏の配下であった武田元繁ですが、実はこの当時、かの大内義興氏は上京中。つまり主の不在時期に独立を画策したものと思われます。

折しも毛利家は元就の兄が死去し、家中は混乱を極めていました。その跡継ぎの幸松丸は2歳。後見人の元就もまだ20歳です。周囲のこのような状況も、元繁が独立を狙って決起した理由の一つでしょう。

武田元繁についてはまた詳しく触れていきたいと思いますが、この時元就は20歳。要するに20歳で初陣を果たした事になります。その後結婚をして、27歳に長男隆元(それまでに女子一人)が産まれている事を考えると、戦国時代では珍しく成人も結婚も遅かった人物です。毛利元就という人物は大器晩成型の人であったのかもしれませんね。

新着