元就の当主就任

さて何度か書きましたが毛利元就は次男であり、家を継ぐ立場ではありませんでした。ですが兄の子であり、当主であった甥の毛利幸松丸が九歳という早さで死去してしまったので、毛利家は後継ぎがいなくなってしまったのです。元就は分家の人間とはいえど、毛利家の直系男子。家督継承の最有力者でありました。家督を継ぐどころか成長するまでにも色々な苦労があった元就ですが、多くの戦でその才覚を見せつけたことも周囲を納得させられる材料となったのではないかと思われます。

しかしだからといって何のもめ事もなく円満に元就が後を継ぐことになったわけでもないのです。毛利家内でも家督継承については色々揉めたらしく、この元就の家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されています。毛利と言えば今ではすぐ名が出てきそうな毛利元就ですが、実際には色々な苦労を経てその座に就いたのです。

さてここで一人の人物を紹介しましょう。彼の名は相合元網。元就の異母弟です。彼は元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示して「今義経」とも称えられた毛利一門の若きエースです。今義経ってほめている名前か?と問いかけたくなるがそれはまぁおいておきましょう。

元就と元網は母親こそ違う兄弟ですが、とても仲が良かったそうです。そう、元就が毛利家を継ぐまでは・・・・。

新着

有田合戦の開幕

1515年、京都から帰国した武田元繁は、大内氏の主力が不在の今こそが武田家の旧安芸守護職の権威を取り戻し、大内氏の従属から逃れる好機と見て行動を開始します。取り始め大内義興から監視の役目のように貰った妻と離縁。尼子経久の弟・久幸の娘と結婚して尼子家と手を結び、大内家から独立しようとしました。

これと同時に元繁は大内氏勢力内への進行も開始。元繁は内乱の続いていた厳島神社の神領を接収し、城兵の逃亡した大野河内城を取得しました。元繁はこの後に己斐城を攻めましたが、こちらは数ヶ月の包囲によっても落ちずにいました。

一方の大内義興は、武田方山県氏の一族である壬生氏・有田氏・今田氏を牽制するために山県郡有田への出陣を毛利興元と吉川元経に命じました。有田城を落とされたことで元繁は己斐城の包囲を解き、その矛先を北、山県郡の大内側の諸城へと向け始めます。

そんな中、毛利家の当主であった興元が1516年8月に死去し、わずか2歳の幸松丸が当主となりました。叔父であった毛利元就が後見役となるが、元就もこの時は20歳。毛利家家中は動揺し始めます。これに「項羽」元繁は動き始めます。

この時旧守護の武田氏の権威と「項羽」と謳われた武将・武田元繁を相手にするのは、小勢力の毛利氏や吉川氏に加えて、若年の元就では無理だろうと思われていました。その上主家の大内氏は主力を京都に引き連れていっているので援軍の派遣も望めない状況。誰もが元繁の勝利だろうと予測していました。

新着

謀神の初陣

さて父親も母親も早くに亡くしてしまい、兄は京都に上がって、城は部下にとられて…乞食若君と呼ばれるまで落ちぶれていた毛利元就。雌伏の時代を生き抜いた彼も、ようやく初陣を果たします。その戦いの名は有田中井手の戦いです。

有田合戦とも呼ばれるこの戦いは、永世14年に起こった戦いであり、この頃中国地方で力の有った尼子氏の援助を受けた武田元繁が吉川氏の居城であった有田城を攻めた事が発端の戦いでした。この武田氏の進行も、安芸国旧守護の勢威回復を目指していたというのが通説となっています。元々大内氏の配下であった武田元繁ですが、実はこの当時、かの大内義興氏は上京中。つまり主の不在時期に独立を画策したものと思われます。

折しも毛利家は元就の兄が死去し、家中は混乱を極めていました。その跡継ぎの幸松丸は2歳。後見人の元就もまだ20歳です。周囲のこのような状況も、元繁が独立を狙って決起した理由の一つでしょう。

武田元繁についてはまた詳しく触れていきたいと思いますが、この時元就は20歳。要するに20歳で初陣を果たした事になります。その後結婚をして、27歳に長男隆元(それまでに女子一人)が産まれている事を考えると、戦国時代では珍しく成人も結婚も遅かった人物です。毛利元就という人物は大器晩成型の人であったのかもしれませんね。

新着

当時の毛利家

さて前回で毛利家の当主は元就ではなく甥の幸松丸という話をしました。この当時の毛利家の状況を簡単に説明しましょう。

毛利元就には兄・毛利輿元がいました。輿元と言う名は烏帽子親になった大内氏より頂いた輿の字を名乗って、輿元としたようです。輿元は大内方だったようで、大内勢として尼子方と戦った事もあります。戦だけでなく領内の国人対立の調停を行うなど、芸備の国人領主のリーダー格として活躍していた人物でした。しかし近隣の宍戸元源との争いは続き、興元は宍戸領内へ攻め込んで幾度も戦いましたが勝負は中々着きませんでした。

この度重なる戦で心身ともに疲労したのか、輿元は酒に逃げるようになり25と言う若さで病死。元就には父・毛利弘元がいますが、こちらも隠居後に酒を煽るようになり早くに亡くなってしまいました。お酒に逃げるのは血筋だったのかもしれません。

さて跡を継いだ幸松丸は僅か九歳。元就は後見人となって働きますが鏡山城の戦いでとんでもない事態が起きました。敵方の首を取った元就が首実験で幸松丸に見せたのですが、九歳の子供に生首はショックだったのかその後幸松丸は病死してしまいます。その後、元就は腹違いの弟との争いに勝って毛利家の後を継ぐ事になりました。あの毛利元就が家を継ぐには、このような流れがあったのです。