有田合戦の開幕

1515年、京都から帰国した武田元繁は、大内氏の主力が不在の今こそが武田家の旧安芸守護職の権威を取り戻し、大内氏の従属から逃れる好機と見て行動を開始します。取り始め大内義興から監視の役目のように貰った妻と離縁。尼子経久の弟・久幸の娘と結婚して尼子家と手を結び、大内家から独立しようとしました。

これと同時に元繁は大内氏勢力内への進行も開始。元繁は内乱の続いていた厳島神社の神領を接収し、城兵の逃亡した大野河内城を取得しました。元繁はこの後に己斐城を攻めましたが、こちらは数ヶ月の包囲によっても落ちずにいました。

一方の大内義興は、武田方山県氏の一族である壬生氏・有田氏・今田氏を牽制するために山県郡有田への出陣を毛利興元と吉川元経に命じました。有田城を落とされたことで元繁は己斐城の包囲を解き、その矛先を北、山県郡の大内側の諸城へと向け始めます。

そんな中、毛利家の当主であった興元が1516年8月に死去し、わずか2歳の幸松丸が当主となりました。叔父であった毛利元就が後見役となるが、元就もこの時は20歳。毛利家家中は動揺し始めます。これに「項羽」元繁は動き始めます。

この時旧守護の武田氏の権威と「項羽」と謳われた武将・武田元繁を相手にするのは、小勢力の毛利氏や吉川氏に加えて、若年の元就では無理だろうと思われていました。その上主家の大内氏は主力を京都に引き連れていっているので援軍の派遣も望めない状況。誰もが元繁の勝利だろうと予測していました。

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毛利輿元の娘

暫く毛利の親類縁者の話が続きますがお付き合いください。早くに父親を亡くし、九歳で後を継ぐも自分も早く亡くなってしまった元就の甥・毛利幸松丸の話が出ましたね。今回はその幸松丸の姉妹であり、先の当主輿元の娘であり、元就の姪の話です。彼女もまた、数奇な人生を生きた人物です。

姫君もまた早くに父を亡くし、叔父の元就の意向で政略結婚に出される事が決まります。

姫君が最初に嫁いだ相手は備後庄原甲山城の山内豊通。この豊通は推定ではありますが姫君より二十歳以上は年上だったとみられています。しかし姫君の初婚はすぐ終わりを迎えます。豊通と姫君は結婚後すぐ死別してしまうのです。

次に姫君が嫁いだのは安芸竹原小早川家の当主興景。ですが輿景もまた、安芸銀山城攻めの陣中で若くして病没してしまいます。元就の息子、従弟の隆景が竹原小早川家を継いだのはこの縁によるものです。

さて二人の夫を亡くした姫君は次は備後神辺城の杉原豊後守室となり、その次は伯耆尾高城の行松正盛の継室となり、その正盛病没後は先の夫である豊後守の一族・杉原盛重の妻として一生を終えます。因みに最後の夫、盛重は何の因果か二十歳以上年下だったようです。

戦国の女性という人生を体現したような生き様ですが、姫君にとっての幸いは歴代の夫が皆毛利家の忠臣、または毛利家と友好的な関係を築いた事でしょう。

女の最大の戦は結婚である事を体現した、毛利輿元の娘の数奇な人生です。

当時の毛利家

さて前回で毛利家の当主は元就ではなく甥の幸松丸という話をしました。この当時の毛利家の状況を簡単に説明しましょう。

毛利元就には兄・毛利輿元がいました。輿元と言う名は烏帽子親になった大内氏より頂いた輿の字を名乗って、輿元としたようです。輿元は大内方だったようで、大内勢として尼子方と戦った事もあります。戦だけでなく領内の国人対立の調停を行うなど、芸備の国人領主のリーダー格として活躍していた人物でした。しかし近隣の宍戸元源との争いは続き、興元は宍戸領内へ攻め込んで幾度も戦いましたが勝負は中々着きませんでした。

この度重なる戦で心身ともに疲労したのか、輿元は酒に逃げるようになり25と言う若さで病死。元就には父・毛利弘元がいますが、こちらも隠居後に酒を煽るようになり早くに亡くなってしまいました。お酒に逃げるのは血筋だったのかもしれません。

さて跡を継いだ幸松丸は僅か九歳。元就は後見人となって働きますが鏡山城の戦いでとんでもない事態が起きました。敵方の首を取った元就が首実験で幸松丸に見せたのですが、九歳の子供に生首はショックだったのかその後幸松丸は病死してしまいます。その後、元就は腹違いの弟との争いに勝って毛利家の後を継ぐ事になりました。あの毛利元就が家を継ぐには、このような流れがあったのです。