長久手の戦い

さて、前回からの続きです。徳川陣と背後を突かれて戦う森&池田隊。両軍入り乱れて行われる対決は正に死闘・死闘・死闘!一進一退の目の離せない戦いは二時間にも及んだと言われています。が、その戦況はとある人物により動きます。

森長可・討死。徳川の鉄砲隊により、眉間を撃ち抜かれての討死でした。

信長により長い間、寵愛を受けてきた森長可こと鬼武蔵はこの地にて最期を迎えます。彼についての話は沢山有り過ぎるので、また別の機会にいくつか語ります。この均衡した戦いは長可の死によって徳川に大きく傾きました。娘婿の討死を聞きながらも池田恒興、必死に立て直しを図りますが、永井直勝の槍を受けて此方も討死しました。恒興の嫡男である池田元助も安道直次によって討ち取られます。この時池田恒興は家臣に父親、兄共に戦場を離脱したと説得されて自らも戦場を離れました。このおかげで何とか池田家は続いていきます。持つべきは状況判断が的確な家臣です。その後二つの隊は散り散りになり逃走をしたと言われています。

戦いは徳川陣営の大勝利にて幕を閉じました。この戦いの名が長久手の戦い、または特に仏ケ根の戦いです。後にこの戦いは小牧・長久手の戦いとして有名になります。

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徳川・池田森激突!

池田恒興、森長可の隊に徳川本体が後方より出現したことが伝わり、緊張が走ります。両将は大慌てで退却を開始するも、家康は堀秀政の隊に敗れた榊原康政の隊を組みこんで陣を構えました。

徳川は右翼に家康3300。左翼に井伊直政3000。そして織田信雄勢3000。

対する池田隊右翼に池田元助・池田輝政4000.左翼に森勢、後方恒興で喘合計9000。

数の上だけで言うと両隊はこの時、ほぼ互角と言っていい状態です。

ですがこの時徳川の陣は高所に陣を構え、斜面に鉄砲隊を三段構えに配置対する池田勢は湿地に陣を構えての戦いと、不利な状態になってしまいました。戦場において重要なのは地の利です。池田隊は完全にその地の利を奪われた状態で徳川勢との戦いを余儀なくされてしまったのです。両隊の激突は死闘をくり返し、一進一退の状況で二時間にも及ぶ時間の戦いとなったと記されています。

所で鉄砲の三段構えと言うと何かを思い出しませんか?そう、織田信長の長篠の戦い、武田騎馬軍への攻撃もまた、鉄砲三段構えでした。因みに元織田家の重鎮である池田家、森家共に鉄砲の名手が多かったとも言われています。そう考えるとこの戦い、何か因縁めいたものを感じてしまいますね。

さてこの戦い、とある人物により一気に戦況が動きます。

 

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家康の分断策

さて、小牧・長久手の戦いの内の見せ場でもある家康による羽柴秀次軍の奇襲が行われました。これによりこの隊の総大将である秀次陣は壊滅し、ほうほうの体で逃げだすまでに至っています。そして勢いに乗って徳川勢は堀秀政隊と戦うも、此方は名人久太郎と呼ばれた戦名人が相手。これには徳川陣は敗北してしまいます。

これを見た家康、自分は隊を率いて長久手の地を見渡す事の出来る色金山に陣を構えます。そして秀政の後方の御旗山と呼ばれる高所へと進軍して、秀政の軍と池田恒興・森長可が率いる軍勢の間を分断する作戦に出ました。無理に敵に当たらず、策を用いて敵を分断する作戦に出るとは家康も流石、後に天下人となる器量の持ち主です。

ここで秀政は家康の馬印を見て、戦況の不利を悟って兵を引き上げたとされています。引き際もわきまえている所が戦上手たる所以ですが、この事を後に批判した文章が残っているのもまた事実です。その件は前回にもご紹介しましたね。

さて、これでピンチに陥ったのはこの家康の隊により後続と分断され、背後から攻撃を受ける池田恒興・森長可部隊です。この二人実は長吉の妻が恒興の娘なので、婿舅関係に当たります。ここで窮地に立たされた婿舅、二人はどうなってしまうのか。

話は次回へと続きます。

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白林山の戦い

さて前回では岩崎城の丹羽氏重の挑発にまんまと乗せられた池田恒興勢。城攻めに時間を費やしただけでなく、やや被害も出てしまい一行の進軍も遅くなります。羽柴秀次もこの後軍を待つためしばし動きが止まります。

その背後に迫るは徳川陣。こう考えると岩崎城は落ちてしまいましたが、丹羽氏重は徳川方にとってとてもよい働きをしたのですね。徳川家ではこんな話が追いように思えます。(因みに氏重、この時16歳です)

羽柴軍は先方が挑発に乗ってしまった先方隊が池田恒興隊、最高峰にいたのはこの軍の総大将である秀吉の甥、羽柴秀次勢です。そこに突如として襲いかかるは徳川方の軍。この時先の戦で城を枕に討ち死にした丹羽氏重の兄・丹羽氏次もこの軍に同行していました。

おそらく気の緩みもあった中、背後を取られていきなり現れた徳川方の奇襲、混乱の中にダメ押しのように側面から榊原康政率いる隊が激しい銃撃を打ち寄せます。この時羽柴秀次は自身の馬を失い、共の馬を借りてほうほうの体で辛くも逃げ出しました。この際に彼を逃がすため、木ノ下一族が幾人も討ち死にしたと伝えられています。

この戦の名が白山林の戦い。羽柴方、特に羽柴秀次らにとっての手痛い敗戦となった戦です。

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岩崎城の戦い

 

さて、お互いに動きを悟られぬように息をひそめながらの戦が始まります。

徳川家康は羽柴秀次勢が篠木・上条城周辺に2泊ほど宿営していた頃に、近隣の農民や有名な忍び集団・ご存知伊賀衆らから情報を得て、秀次らの動きを察知。翌日に小幡城へと入ります。その夜には素早く陣立てを取り決め、夜が明ける間もなく榊原康政ら諸将に秀次陣へ追撃を行わせます。これに合わせて家康、信雄も出陣!士気を上げる事も忘れていません。

この日、池田恒興勢が丹羽氏重らが守護していた岩崎城へ攻撃を開始します。氏重らは懸命に闘うも、落城して玉砕してしまいました。これが岩崎城の戦いです。この氏重の兄である丹羽氏次は、榊原康政らと共に秀次らの追撃を行う軍に同行していました。

しかしこの岩崎城攻め、実は池田恒興が敵の挑発に乗ってやってしまったものという通説になっています。氏重勢は池田勢に挑発として銃撃をしかけたのですが、これに恒興大激怒。なんと奇襲中だという事を完全に忘れて、岩崎城攻略を行ったとされています。

そして羽柴軍は休息して進軍を待ちますが、その背後に徳川軍が迫っている事を知らないのでありました。

いやはや、しかし大事な戦の最中に別の城を落そうというのはある意味死亡フラグだと、この頃から分かってたんですねぇ。

さて、背後に迫る徳川陣。彼らはどうなるのでしょうか。

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岡崎中入り

さて小牧・長久手の戦いが始まりましたが、戦は双方共ににらみ合いの膠着状態です。この戦がどう動いたのかを今回は追っていきましょう。

さて膠着状態は、「中入り」とも呼ばれる秀吉方の動きで戦に動きを見せます。

 

膠着状態の中、秀吉に進言してきたのは池田恒興でした。恒興の進言は家康の本拠地である三河岡崎への中入りでした。中入りとはすきを突いて相手の城に侵入、もしくは攻撃をかける事です。この案を秀吉は採用、甥の羽柴秀次を総大将に池田恒興、森長可ら2万の軍勢を密かに出発させました。この時の編成はこの様になっています。

第一陣・池田恒興・池田元助・池田輝政・6000

第二陣・森長可・遠藤慶隆・関成政・3000

第三陣・堀秀政・堀直政・多賀秀種・3000

第四陣・羽柴秀次・田中吉政・長谷川秀一8000

総大将は羽柴秀次、お目付が堀秀政です。この前の羽黒の戦いで森長可は失態を犯していますし、池田恒興はその舅に当たりますのでこの戦はもしかしたらその失態を婿舅で取り返そうというものであったのかもしれません。ともあれ大軍を率いて一行は家康の本拠地である岡崎城へ向かいます。

が、既にこの動きは家康側に知られていたのです。家康もまた悟られぬように密かに兵を岡崎へと向かわせます。

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池田恒興・息子を返してもらって

さて小牧・長久手の戦いの中、織田家の重臣であり信長の乳兄弟でもあった池田恒興は突如織田信雄側から羽柴秀吉方につきます。この理由が何であったのかについては色々な憶測がありますが、そこに至るまでにはこのような逸話があったとも言われています。

小牧・長久手の戦いの時の事である。池田恒興は乳兄弟である信長の息子・織田信雄に味方していたが、本当は秀吉に味方したかった。何で味方したかったかは分からない。彼の中で秀吉はさりとての者であると見抜いていたのか、それとも信雄に見限りを着けていたのか、実はそれほど信長に恩義を感じていなかったのか、かのヒャッハー娘婿のように何か秀吉から貰う約束を取り付けたのかはしらない。が、とにかく秀吉に味方したかった。

だが恒興、この時次男の輝政を信雄に人質として出していた。これでは中々裏切りに踏み切れない。だが信雄の方から

「恒興は忠臣である。そのような者から人質を取れば諸将は俺の人格を疑うだろうから、輝政は返そう」

と、輝政を返してきた。

「何と信雄様はそこまでこの恒興を信頼して下さったのか!」

その後、恒興は素早く信雄を裏切り犬山城を調略にて攻め落としましたとさ。え…

何とも前後の脈絡がないように思えますが、池田恒興はTPOに合わせた柔軟な考えをもつ忠臣だったようですね。そんな池田恒興、息子を返してもらって掌を返す、という逸話です。

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犬山城調略の裏話2

さて、日置才蔵が向かった先は犬山の町です。そして町人達が連歌の会を催す会合に顔を出してこう言いました。

「この度、信雄様と秀吉様が一戦に及ぶことになった。秀吉様はその軍勢30万で既に大阪を出発しており、美濃に侵攻し犬山に討ちに出てくるだろう。そうすればこの犬山は尽く放火され、人々は皆殺しとなり、全ての者が家を失い身を滅ぼすであろう。恒興様はその事を知りって縁深い犬山がその様な目に合うのは気の毒だと考えて、私にそれを知らせるため派遣されたのだ」

これを聞いた町人達はびっくり。

「何ということか!どうかその様にならないように、恒興様に申し上げては頂けませんか!?」

「分かった。そのように申すのならば手がない訳ではない。お前達は恒興様に従う事をここに誓うのだ。誓った者には褒美としてこれを与えよう。」

と才蔵、懐より金子を取り出した。それを見た町人達は大喜びで金子を受取り恒興に従う事を誓う。だが才蔵内心では、してやったり!と叫ぶ。

「が、恒興様にこの事を申し上げるにも目に見える証拠が必要である。従う気持ちを形で表すため、お前たち全員人質を出せ。」

既に金子を受け取ってしまった以上、町人達もこれを断ることは出来ません。仕方なく人質を出し、才蔵はこれを大垣の恒興の元にに連れ帰りました。これが3月12日のこと。

そして翌13日に家康が清須に到着。27日には秀吉が犬山城に入り、合戦は羽黒の戦いへと続いていきます。

池田恒興の見事な調略により、犬山城は後に落城したのでした。しかしこの恒興、嘗ては信長の乳兄弟であり織田家の重臣です。彼がなぜ織田方から羽柴方についたのか、次回はその逸話をご紹介しましょう。

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犬山城調略の裏話1

さて、小牧・長久手の戦いが始まり、早速徳川家康・織田信雄側の犬山城が池田恒興によって落とされてしまいましたが、これをどうやって落としたかの逸話がありますのでご紹介しましょう。

後に小牧・長久手の戦いが始まった時の事です。

信雄方であるの犬山城主、中川定成は伊勢における羽柴秀長、蒲生氏郷らとの戦いで討死しており、犬山城には少数の守備兵だけが残っていた状態でした。これを大垣にいた池田恒興が知った時、彼は信雄側から秀吉側に寝返る時を決めたばかりの時でした。

「我々は秀吉方に従うことにしたが、未だ旗幟をはっきりと見せる事は出来ていない。早く尾張に攻め入り秀吉に味方した証拠を見せねばならないが、ここで犬山の城主が討たれ、残兵も少数だと言う。これは城に攻め入り、犬山を攻め取る手柄を立てるまたとない好機である!幸いにも俺は元亀の頃犬山を領していた。そうだ、日置才蔵をここに呼べ!」

日置才蔵は恒興が犬山領を納めていた頃、犬山城下の奉行を務めていた人物です。恒興は才蔵にある調略の命令を密かに下します。その名を受けた才蔵、早速ある場所へと向かいます。

さて、才蔵の向う場所は?そして恒興の調略とは…?

このように、戦は戦の始まる前から色々な考えが巡っているんですね。昔の人物は常に頭を巡らせていたのでしょう。

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家康の参戦・池田恒興の離反

さて、今回は前回の続きである小牧・長久手(長湫)の戦いのお話です。秀吉に織田家の実権を握られた信長の二男・織田信雄が徳川家康をほぼ巻き込んだ形で挙兵しました。この戦、その名の通り前半は小牧、小牧山周辺での戦が主となっています。

さて信雄の挙兵に合わせて家康も挙兵、清州城に兵を集めて自分も向かいます。が、この日驚愕の事件が起こります。何と織田氏譜代の家臣であり、信長とは乳兄弟に当たる池田恒興が羽柴軍に寝返って犬山城を占拠しました。誰しも恒興は信雄・家康側につくと思われていたのでこれには皆が仰天した事でしょう。ですが恒興の娘婿である森長可が秀吉側についていたので、何かしら理由があったのかもしれません。

家康はこれに対抗するため、翌日には小牧山城に駆けつけます。前述した森長可が小牧山城を狙っていたからです。これには家康側の酒井忠次、榊原康政らが夜襲で対抗し、長可は停滞攻撃を受け敗走。小牧山は家康が奪取する事に成功しました。その後、両軍は膠着状態になります。

今回名前が出てきた信長の乳兄弟池田恒興はのみならず、森乱丸の兄である森長可は戦国史好きなら誰でも知っているスーパー武将。色々な恐ろしい凄い逸話を持つ人物ですが、それについてはまた別で紹介しましょう。正直語りつくせるような人間ではないので…

では、次回でまた。

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