握り飯と紹運・宗茂親子の話

えー、聊か今回は意味不明なタイトルかと思いますが、お付き合い願います。

立花鑑載討伐の際の、食事時の逸話です。

この時夜討ちの後で(数説あり)兵士達は食欲がなく、弁当の握り飯を食べられたのはほんの数名でした。食べた者達も戻したり喉に詰まらせたりと散々でしたが、紹運は

「男たるものこれから死ぬかもしれない時に飯ぐらい食えないでどうする!」

と家臣達を励ましながら率先して握り飯を五、六個素早く食べたと言われています。それお腹空いてただけとちゃうんかと

さてこの良く分からない逸話ですが、実は宗茂にも似たような逸話があります。

対して此方は秀吉による朝鮮出兵時の話です。この時も兵士達の疲れや疲労はピークで食欲がなく、また無理をして食べた家臣達が宗茂の前で食べた物をリバースしてしまいました。でも宗茂もまた紹運の血をひく息子、それを気に掛けず凄い勢いで握り飯を食べたそうです。だから腹減ってただけとちゃうんかと

こんな所でも何だか親子なんだなぁと思わせてくれる紹運と宗茂。因みに宗茂の義父・道雪も食のこだわりがあり「男なら鮎は頭から食すもの!」みたいな所があります。戦国時代はご飯を食べるのにも一苦労という話ですね!多分違う

陣引きの際に

さて家臣一同は道雪の遺体の入った棺を輸送しながら陣を引く事に決めました。ですが敵は島津、背後を見せて退却するのですから追撃を警戒しながら陣を引き払わねばなりません。そして同時に退却時にどのような敵に襲われるとも限りません。立花家臣一同、主の棺を守るべく気合を入れ直し、一層の注意を払いながらの行動が開始されました。

しかし陣払いを開始して退却しているのに、何故か島津側から追撃がありません。ふと振り返り島津陣を見やると、そこには道雪の死を悼んで喪に服す島津勢の姿が。その中には道雪の死に涙を流す者すらいたようです。

また退却をする中でも、『あの道雪公の開陣である』と道中で矢の一本すらいられぬまま、無事主の棺を一行達は領内まで運ぶ事が出来ました。

その葬儀の時には敵対していた城の城主達自ら馬を飛ばして訪れ、遠方の者は弔いの使者を遣わすなどして立花城で誰しも道雪の死を悼んだようです。『道雪の死にいたって、それまで敵対していた人々が和睦の心を通ぜようとしている。これは尋常のことではない』。人々はそう噂しあったと言われています。東には弟の葬式で戦吹っかけた奴もいるというのに

そんな道雪の辞世の句。

「異方に 心ひくなよ 豊国の 鉄の弓末に 世はなりぬとも」

これからも当家は戦ばかりが続くであろうが大友家の敵に心を揺さぶられるな。決して大恩に仇で返してはならない。

敵味方全ての人に惜しまれた、忠節の徒・雷神立花道雪の最後らしい言葉です。

九州

忠義と遺言

道雪の遺言である「遺体に具足をつけたままこの地に立ったまま埋める」。これを守るというのならば、道雪の遺体をこの地においていくという事になってしまいます。如何に主の最後の言葉といえど、道雪の遺体を置いて退却するなど出来る筈がありません。家臣達は一同頭を悩ませて話し合い、結論が出ました。

「やはり道雪様をこのような場所においてはいけない、皆で立花の城にお連れしよう」

「だが道雪様の最後の御言葉に背いて、祟りがあれば何とする」

「何、祟りがあって道雪様が枕元に立たれたならばお叱りを受け、その場で腹を切れば良いではないか。道雪様に最後を見届けて頂かれるのであれば、これ以上の幸せはなかろう」

こうして、一同は道雪の遺言には背きながらも、その遺体を主君の城・立花城まで連れ帰る事に決めました。立花道雪という人がどのように家臣に接していて、そして家臣がどのように思っていたか伝わって来るようなエピソードです。

こうして生涯三十七度の戦を戦い抜き、主君大友家を支え続けた立花道雪の遺体はその後、当時の筑前の寺にて埋葬されました。その後、道雪が悪霊となって祟ったという逸話は聞いた事がありませんが、もしかして死んで尚、家臣の皆は道雪にもう一度会いたかったのかもしれませんね。

九州

立花道雪の死

勢力を増しながら北上を続けてくる島津家。対する大友家は有力な家臣団を失っている事もあって必死の抵抗をするも、島津はじわじわ攻め上がって来ます。長年敵対していた秋月家も島津方につき、大友家は最大のピンチを迎えます。

そんな中、あの名将・立花道雪が陣中で体調を崩します。この時良大社で病気平癒の祈願が行われるも、道雪の体調は戻らず。道雪の盟友であり、息子を養子に出した高橋紹運もこの時看護にかり出たとも言われていますが、それでも道雪の体調は悪化の一途をたどりました。

そして九月の十一日。道雪は陣中で病死しました。享年七十三歳。大友家に忠義を尽くした名将がまた一人、この世を去ったのです。

さてここで陣内では問題が起きました。もちろん道雪が死んで大友家のこれから、島津家にどう対抗していくかも大変ですが、それは道雪の最後の言葉、遺言に理由があったのです。道雪は娘・誾千代や息子・宗茂の体調気づかいの返事に、そして死期を悟って周りの者達にこう言い含めていました。

「我が遺体に甲冑をつけ、敵の方へ向けてこの地に立ったまま埋めよ。もしこれを破らば、お前達の元へ悪霊となって祟ろうぞ。」

死して尚、道雪は大友家を守るように戦おうというのでしょうか。その忠義は立派ですが、周囲の者達はこれに頭を悩ませていました。

九州

宗像氏と呪いの怨念10

道雪の宗像貞氏討伐命令ですが、これは流石の道雪であっても怒りに任せての行動と言わざるを得ません。重臣である由布雪下・小野和泉らもこれには異を唱えています。

まず氏貞自身はこの計画に加担した訳ではなく、最後まで反対して止めようとしていた事。そしてこの当時の大友家にとって宗像氏貞という人物は、数少ない新大友派でした。下手に攻撃をして大友家から離反されては、と懸念して道雪に進言していますが結局道雪は宗像氏貞討伐を開始。二人はこの時、命令違反をしてでもと戦に出なかったと言われています。

さて、この戦で一番被害を被ったのは道雪の側室となっていた貞氏の妹・お色の方。彼女は兄と道雪の抗争に心を痛め、病死したとも、自害したとも言われています。大友家と宗像家の友好の為に嫁いだというのに、この最期はやるせない気持ちになります。

悲劇の女性・お色の方。彼女の命日は天正十二年三月二十四日。

この日は宗像氏貞、お色の方の母親が、先妻である山田の局とその娘を惨殺した日の翌日であるといいます。これもまた縁なのか、それとももっと別の何かだったのでしょうか。

またこの哀れなお色の方はその後道雪の養子に入った立花宗茂により、手厚く葬られています。

宗像氏と呪いの怨念9

さて、大友家と宗像家の講和は上手くいきました。氏貞はこの同盟にかなり気を使い、心を砕いていたようです。そして時は流れて。立花家の家老、鷹取城城主の森鎮実が領内不作による食糧支援を道雪に求めてきました。道雪はこの頃秋月家との対立が忙しかったのですが、自ら食糧を輸送しました。

所がこの輸送を邪魔する動きを企んだのは若宮郷氏。郷氏は先の同盟の際に殺害された川津らと共に西郷の血を先祖代々統治してきた者達、その土地を立花家に奪われあまつさえ配置替えされたのが不毛の地であった若宮であった事で道雪らに深い遺恨の念を抱いていたと言われています。この襲撃には郷氏らだけでなく、立花氏と激しく対立していた秋月勢も加わります。焦ったのは氏貞自身、家老達を遣わして何とかこの襲撃を止めようとしましたが、よりによって遣わした家老二名までこの襲撃に加わってしまいました。

結論から言うとこの襲撃は大失敗。宗像一派、秋月一派は立花勢に蹴散らされ、道雪達は見事兵糧を餓えで苦しんでいた鷹取城まで届けました。ですがこの襲撃は必要のない余波を生み出してしまいました。道雪はこの時の襲撃に大激怒し、計画を止めようとしていた宗像氏貞討伐の命令を発してしまうのです。

宗像氏と恨みの怨念8

折角比叡山から高僧を呼んだのに祈祷は失敗に終わり、それ以降も度重なる不運に氏貞は何度も山田の局達の慰霊に努めます。「親の因果が子に報い」とは言いますが、氏貞自身は与り知らぬ事なのにこんな事になってしまうとは不運ですね。母親も息子の為に良かれと思ってした事が(結構な悪意と嫉妬も見え隠れしますが・・・)、返って息子を苦しめるとは思っていなかったのでしょう。その後の慰霊も、どれも上手くは行かなかったようです。

これより以後、宗像家は段々と傾き始めていきます。宗像家譜代の重臣達は誰もが病にかかったり、謎の発狂をしたり、はたまた討死してしまったりとその全てが氏貞の代の内に耐え果てました。

同時に勢力を伸ばす大友家に従う事になった氏貞は、豊後三老と呼ばれる臼杵鑑速の娘であり、大友宗麟の養女となった女性を妻に迎え入れて、そして妹のお色の方は立花道雪の側室になりました。この縁組はもちろん同盟の為であり、側室というよりは人質のような状態であったのでしょう。お色の方も家の為に嫁ぎました。また氏貞はこの時家臣の一人を同盟の条件として殺害しています。これは苦渋の判断であったのか、その遺児達を宗像の一族と同じ扱いをして取り立てています。

しかしこの時同盟の婚姻時、兄の氏貞がお色の方の化粧料として立花家に贈った西郷・若宮の領地が悲劇の発端となってしまうのでした。

立花宗茂の婿養子入り3

さて養子に迎えられた立花宗茂、まだ幼い子供でしたが義父となった道雪は宗茂を厳しく育て上げます。それもその筈、無理を言って貰った養子なだけに甘やかして育て上げては紹運の顔に泥を塗るような事にもなりかねません。その教育は食事時にまで及び、鮎を身をむしりながら食べていたら「男なら鮎は頭から丸かじりにせんかい!」と怒られるほどでした。確かに鮎は丸かじりにして食べた方が無駄なくて美味しいですよね(多分ここじゃないだろうけど)

その厳しい教育は家臣達にも浸透しており、家臣の小野鎮幸は宗茂と栗山へいき、足に毬が刺さった宗茂が「痛いから棘を抜いてくれ」と足を差しだすと、それを無言で更に深く刺し込んだそうです。男ならば栗の毬ごときでゴタゴタ言うな!という教育方針なのでしょうか?ちょっとした虐待にも見える

ですがこうして厳しい教育を受けた宗茂は西国一と呼ばれるほどの名将になっていくのです。

この宗茂ですが、実は初陣を辞退して一年伸ばしています。「今の力では討死してしまうから」との言葉に家臣達は「若君は臆病なのか」とうろたえましたが、言葉通り一年後の初陣で大手柄を上げました。その戦手腕を道雪に見込まれたのかもしれません。

身の程を知る、という言葉は悪い言葉のようでいて、実はとても難しく重要な事なのですね。

 

立花宗茂の婿養子入り2

「宗茂よ、これは父よりの最後の手向けである。受け取るがよい。」

そう言って紹運が取りだしたのは、自身の愛刀・備前長光でした。宗茂がそれを受け取ると共に、紹運は息子に父として最後の薫陶を授けます。

「よいか宗茂よ、これよりお前は道雪様の息子になる。もし私と道雪様が争うような事あれば、その時お前は自ら先陣を願い出てその刀で私を討ち取りに来るのだ。」

「そしてその際にもしお前が古い親子の情に流されて私を討ち取れぬような事あれば、道雪様の元へ戻るようなみっともない真似は許さぬ。その場で、その刀で自らの腹を切るように。」

「そしてお前が何か不覚を取って道雪様より離縁される事があったとしてもこの城へ戻る事は許さぬ。その場合も潔く腹を切って果てよ。」

織田信長の妻・帰蝶姫より輿入れの際に短刀を父・道三より賜って「夫がうつけならば刺し殺して戻ってこい」と言われましたが、こちらは中々にスパルタな教えですね。しかし父の教えの意味を悟り、宗茂はその刀を受け取ります。そしてそれを見届け、紹運は最後にこう告げました。

「よし。それでは最後の教えだ。もし私がお前より早く死ぬ事あればその刀を形見と思い、我が教えに従って生きるように」

こうして親子は、最後の別れをしたのであります。

立花宗茂の婿養子入り1

さて当時高橋弥七郎と名乗っていた高橋紹運の息子・後の立花宗茂ですがその養子になった経緯も簡単なものではなかったのです。

高橋紹運と立花道雪、彼らは親子ほど年が離れていながらも熱い友情で結ばれており、深い交流がありました。そしてある日、道雪は紹運の元を訪れます。何の用であるのかと首をかしげる紹運に、道雪は宗茂を養子にくれないかと切り出します。これには紹運もびっくり。

紹運には息子が二人おり、この内の嫡男が宗茂です。つまり宗茂は紹運にとっても優秀で大切な跡取り息子です。如何に相手が道雪でその頼みとあっても、簡単にはいそうですかと渡す訳にはいきません。それだけは勘弁してくれと何度も断るも、道雪もまた必死に紹運に頼み込みました。道雪もまた、大友家を守るために立花家を断絶する訳にもいかず、その後継ぎとして宗茂に養子に来て欲しかったのでしょう。

この時道雪には娘・誾千代一人しか子がおらず、娘にするには惜しい器量といいながらも、やはり自分亡き後娘が一人で家を守るのは心配だったのかもしれません。道雪の頼みを最初こそ拒んでいた紹運ですが、その大友家への忠節を感じ取ったのか宗茂を養子に出す事を了承しました。

そして宗茂の養子入りの前に最後の宴が開かれます。そして紹運は息子を呼びました。