大内末子のアレに関わるお話

さて今回の話は戦国の世では珍しくも無く、幼い子供が命を落とす話ではありますが・・・それ以上に何だか身体の一部が縮みあがりそうなそうでもないようなお話ですのでご注意下され。

天文20年・1551年に、陶晴賢が謀反を起こして大内義隆が自刃しました。以前にも書いた大内家の滅亡である戦である、大寧寺の乱です。さてこの時、義隆の嫡男の義尊も捕らえられて殺されましたが、末子であった歓寿丸は幼いので女装して山中にかくまわれていた為に無事でした。そう言えば黒田官兵衛の息子・松寿丸も女装させられて竹中半兵衛の元に愛人として匿われていた、なんて話もありますが、まぁ逸話でしょう。結構体格がよさそうな松寿丸が女の子の格好させられていたというのは眉唾もののような気もします。

話を戻して歓寿丸は、翌年の春に不幸にも陶兵に見つかってしまいました。この時陶兵は歓寿丸を殺すと、男児の証拠にとアレを切り取って持ち去ったそうです。・・・・・。

・・・・その後、歓寿丸を憐れんだ里の者達は「麻羅観音」という杜を建てて歓寿丸の霊を祭り、今の時代にも残っているその杜は今では子宝祈願スポット・○○○スポットととして人々に愛されていると言います。

その扱いは本当に憐れんでいるのか、とは言わない約束です。

親子の対面と別れ

前回の記事にも書いたとおり、官兵衛は一年後に幽閉先より救い出されます。この時官兵衛は酷い有様で、足が不自由になっていたそうです。そうまでしても官兵衛は織田家への忠義を貫き通していました。

救い出された官兵衛を見て織田信長は喜びましたが、同時にかなりの罪悪感も覚えたようです。官兵衛が裏切ったものと信じて、人質の松寿丸を処刑してしまったからです。ですがそこで「実は…」と秀吉が現れます。

竹中半兵衛の機転により、松寿丸は処刑を免れていました。それを知った信長は安堵しながらも、「また半兵衛めにしてやられたか」と笑ったそうです。

さて、感動の親子の対面が行われました。幽閉された官兵衛も息子は見せしめに処刑されたであろうと思っていたので、喜びもひとしおでした。ましてや自らの身の危険も顧みずに松寿丸を匿ってくれた半兵衛に、官兵衛は大変感謝していました。

ですが、悲しい事に既に半兵衛はこの世の人ではなくなっていました。

元々病を患っていた半兵衛は、官兵衛の救出前に亡くなっていました。「死ぬならば戦場で」と病気の身を押して出陣し、陣中で亡くなったそうです。

松寿丸がなければ後の黒田家も無かった話ですが、息子を助けて貰った官兵衛は恩人にお礼も言えないままというのが、物語のようで美しく悲しい話ですね。

それ以後官兵衛は半兵衛の分まで秀吉に仕えていくのですが、それはまた別のお話です。

人質・松寿丸

さて父親がうっかり捕まってしまった事から生命のピンチになった息子・松寿丸。

彼を救いだしたのは、竹中半兵衛その人でした。

 

おそらく半兵衛は、官兵衛が裏切る筈がないと信じていたのでしょうか。彼は官兵衛の息子の松寿丸を助け出し、石田三成父親の石田正継の元に匿ってもらったのです。官兵衛の幽閉期間は一年間にも及ぶ長いものであったので、その間隠し通したという事はあの織田信長を朝向きとおしたという事、正直驚きを隠せません。

因みに一説には病死した子供の首を信長に送って欺いたという説も…。

いやはや、竹中半兵衛という人物はイメージに反して豪胆な人物ですね。何が彼をそこまでさせたのか。官兵衛との友情か、はたまた幼い松寿丸を可哀想に思ったか、それとも信長への挑戦だったのか…半兵衛の真意は、分かりません。

そして匿われた松寿丸は、そこで半兵衛の息子の左京らと仲良くなります。これが後の竹中の家を救う事になる事は、果たして半兵衛の眼は見抜いていたのか。

松寿丸は匿われた先で半兵衛に具足初めの祝いを取り行われ、その際に 半兵衛自身から祝いの羽織を贈られたという逸話もあります。幽閉され匿われと忙しい松寿丸ですが、この時の松寿丸にとっては半兵衛は命の恩人であり、父親代わりだったのかもしれませんね。

さて幽閉された官兵衛が助け出されるまで一年。時代は進みます。

官兵衛「ちょ、おま」

今回は羽柴のユニット両兵衛の、黒田官兵衛と竹中半兵衛の逸話を一つご紹介します。

官兵衛は秀吉の元でその才能を奮い、手柄を上げていきます。そして秀吉に気に入られたのか、官兵衛はある日秀吉に「いつもありがとう!官兵衛の事を弟みたいに思ってるよ!」という感じの手紙を貰い、嬉しさのあまりそれを半兵衛に見せます。

しかし半兵衛、その手紙を「こんなものあってもアンタの為にならん」と破り捨てます。

後に官兵衛は同じように、秀吉から加増の約束の手紙を貰うもいつまでたっても約束が果たして貰えず半兵衛に愚痴をこぼしますが、その際も同じように半兵衛はあっさりその手紙を破ってしまいます。

半兵衛曰く「このような約束があり、書状があるから不満を持つ。それは貴方の為にならない」とのこと。人の心は変わりやすいものであるので、信じすぎて裏切られた、という心を持つ事は危険である、という事でしょうか。官兵衛もまたこの半兵衛の言葉に納得し、己の振る舞いを恥じたようです。常に主君の事を考え、見返りを求めず尽くす事が大事という教えなのかもしれませんね。というか秀吉は実の弟にひどい仕打ちをしてるから弟とか思われない方が

さてそんな官兵衛の人生が一転する事態が引き起こされますが、それはまた後ほど。

 

 

羽柴の両兵衛

さて、黒田官兵衛と竹中半兵衛のお話ですね。

彼らは共に才知あふれる人物として、秀吉の元でその才能を奮っていきます。お互いに家族を伴っての交流もあったようですので、知者は知者を好む、と言うべきでしょうか。何にせよ2人は良い友人関係を築いていたと思われます。そんな2人はタイトル通り羽柴の「両兵衛」と呼ばれていました。

そんな半兵衛の衝撃的な逸話(間接的に官兵衛の?)の一つ。

ある日、半兵衛は皆の前で合戦の話をしていました。しかし話の途中、息子の左京(後の竹中重門)は立ち上がり、話を遮ってはいけないと思ったのか無言で部屋を退出しました。

しかし戻ってきた重門を半兵衛は「合戦話の最中に退出するとは何事か」と叱りつけました。重門は「厠に行ってまいりました」と申し開きをしたのですが、半兵衛は益々怒り狂い、

「どうしてここで小便を漏らさなかったのか!竹中の子ならば合戦の話に夢中になって漏らすくらいして見せろ!」と怒鳴りつけたのでした…。え…。

この逸話、大河ドラマでは幼少期の官兵衛の逸話として紹介されていましたね。あの話にも元となった話があるとは、驚きでしょう?

しかし現代人の感覚からすると寧ろトイレに行かなかった方がおかしいような気がしてきます

流石半兵衛、子供の躾一つとっても常人には及ぶ所ではない考えです。

では次回は官兵衛と、半兵衛の逸話を一つ紹介をしたいと思います。

竹中半兵衛という人物

さて、前回でも少し名前の出た竹中半兵衛について解説をしていきましょう。

彼は黒田官兵衛を語る上では外せない人物であり、彼もまた、希代の名軍師として官兵衛とともに羽柴秀吉に仕えていた人物です。

因みに官兵衛の名前が黒田孝高であるように、諱ですと「竹中重治」または「竹中重虎」になりますが、このブログでは通称の「竹中半兵衛」でいきます。知名度優先とかそんな

 

竹中半兵衛は織田信長の正室、濃姫の出身の美濃斎藤家に仕えていた武将です。その為、織田信長と敵対し、十面埋伏の陣などで織田家を破ってきた人物でしたが、実際には斎藤家では冷遇されていました。そして酒色に溺れる主君を諌める為に舅、弟らとわずか16人で難攻不落の稲葉山城を一日で奪い取るなど凄まじい事をやってのけた人物です。

その後、半兵衛は色々あって羽柴秀吉の配下になります。

因みに上記の城とりに加えて、剣術もかなりの腕前を持っていたとされる竹中半兵衛ですが、外見は「痩身且つ、その容貌婦人の如し」とあるので、女性的な風貌だったようですね。

女性的と言うと森蘭丸(正確には乱丸)が有名ですが、彼は実は美男子と言う記述はないので(信長の好みから察するにムキムキだったかと…)、記述までされて残っている竹中半兵衛はよほど女性的だったようかと。

そんな竹中半兵衛と黒田官兵衛の話が暫く続きます。

 

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