鬼武蔵と役人2

さて鬼武蔵と役人シリーズその2です。今回も鬼武蔵が出るからとっても血なまぐさいから気をつけて下さいね!

さて頃は信長が近江に橋を作った頃の話である。この橋の名は瀬田橋。瀬田橋は見事完成したが、主君信長の渡り初めが無い内は使用禁止であった。と、そこに馬に乗った人物が現れる。鬼武蔵こと森長可その人である。この時の橋奉行の名は山岡美作守である。

その家臣がこの橋はまだ渡れないので船を使って下され、と長可に言った。何故ならそれが彼らの仕事であるからである。が、ここで長可大激怒。

「橋が完成して無いならまだしも、完成した橋があるのに船に乗れとはおかしいな話ではないか!渡り初めがまだなら俺が渡り初めをしてやろうぞ!」

と、あくまで橋を渡ろうとする。番人達は必死に馬を抑えようとしたが、長可に切り捨てられてしまった。そして長可、悠々と橋を渡っていった。これを見た長可の家臣達はとりあえずその死体を川に投げ捨て、飛び散った血を掃除して長可を追いかけた。アフターケアもバッチリである。

訳がなくこの事は見事にばれた。ばれない筈がない。部下を殺された山岡は大激怒して信長に長可にしかるべき処分を求めた。それに対して信長は、

「鬼武蔵だから仕方が無い」

として無罪放免とした。因みにこの時の橋守は織田方、つまり長可にとって味方である。

 

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鬼武蔵と役人1

さて今回からは小牧長久手で討死してしまった鬼武蔵こと森長可がどのような人物であったのかいくつかの逸話をご紹介していきましょう。いくつか読めばきっと貴方も森長可に夢中になること請け合いの森長可、本能寺で死んだ事が有名な森乱丸のお兄さんですね。そんな森長可の逸話のほんの一部、森長可と役人シリーズはっじまっるよー。

その昔、まだ信長が元気で生存していた頃のお話です。信長は見事上洛を果たし、京の都に大名達を招集しました。まだこの頃の信長には敵が多く、今日の町は厳重な警備がされていました。入京する人間は関所で人改めをしてから入京が叶っていました。

その頃、森長可もまた入京しようと関所を潜る。

「じゃ、急いでからこれで」

何と長可、名乗りもせずにさっさとここを通過しようとする。もちろん役人達はこれを遮る。なぜならそれが彼らの仕事であり任務である。放り出せば自ら魔王を名乗るトップに怒られるどころでは済まないからである。だが長可、これに怒って馬上から役人達を切り殺した。

緊急事態発足。エマージェンシー。

関所は扉を封鎖して長可らを捕らえようとしたが、長可配下らによって関所に放火させられて長可は悠々と入京されてしまった。この事について信長は

「鬼武蔵だから仕方ない」

と、不問に付してしまったという。森長可、関所の役人を切って放火までするという話である。因みにこの時切られたのは味方である。

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荒木村重

これからの官兵衛の事を解説する前に、荒木村重という人物を紹介します。

荒木村重は元は池田城城主、池田勝正の家臣でした。ですが後に主君を追放し、池田家の実質を握って当時敵対していた三好三人衆と手を結びます。そして織田信長率いる織田家と対立していきます。

ですが歴史は動く、1573年、今度は三好方を見限ったのか、村重は信長に接近。今日に上洛してきた信長に謁見します。当時、信長の周囲は敵だらけでした。なのでその一方である村重率いる摂津方面を平定できるのかどうかは、重要な意味を持っていました。

村重は翌年、伊丹城城主となり城名を有岡城と改め、更に摂津の豪族達を次々と平定していきました。その上で信長に従って石山合戦などにも参加して武功を次々に上げています。信長にとっても荒木村重という人物は貴重な存在であり、頼れる家臣の一人だったのでしょう。

当時の荒木村重の石高はなんと35万石。織田家でもこれほどの所領を拝領していた武将はあまりいません。信長が村重を信頼していたのが分かりますね。しかしその後、誰も予想していなかった事態が起こります。

荒木村重謀反。

1578年、突如荒木村重は信長に謀反を起こします。この事態に信長は驚き、中々事実を信じられなかったとされています。この際に村重の長男と結婚していた明智光秀の娘は、光秀に遠慮して村重が離縁して親元に帰されています。理由分かりませんが、荒木村重も覚悟の上の事だったのでしょうか。

そこに我らが黒田官兵衛が空気を読めずに説得に向かいます。さて、どうなってしまうのか。

 

織田家に参陣!

さて西の毛利、東の織田。どちらにつくのか…

タイトルから分かるとかいっちゃだめ

 

1575年に官兵衛は主君小寺政職とともに織田信長に謁見。その後は信長に臣従することとなります。この時、官兵衛は何を持って織田信長に着こうとしたのかは我々にも分かりません。織田信長は後世から見れば天下に最も近付いた英雄と言うべき存在でしょうが、この時代で見ればどうだったかは知りえない情報です。

偶に「何で今川義元は織田信長と戦ったの?織田信長は天下とる人なのに」という人を(本当に)見かけますが、当時では誰が天下を取るかなんて誰も知らなかったですからね。

まさか羽柴秀吉が天下人になるとか誰も信じまいて…

ここは天才軍師となる黒田官兵衛の先見の明としておきましょうか。その後、官兵衛は小寺家を離れ織田家よりになっていきます

1577年には嫡男の松寿丸を人質として織田家に差し出し、その後、羽柴秀吉が播磨国へ進駐させられると、官兵衛は姫路城をも差し出してしまいます。ですがその事が秀吉に気に入られたのか、それからは秀吉の軍師として従うようになっていきます。

そしてそこで「羽柴の仁兵衛」と呼ばれる相方人物、竹中半兵衛と出会って親交を深めていくのですが、それはまた別のお話。

 

光夫人との婚姻

さて、官兵衛と正室光夫人との結婚です。光夫人は幸円という名で親しまれてますが、光(てる)の方の表記で行きましょう。

光は官兵衛最初の主君、小寺政職の姪に当たりましたが、養女となって官兵衛に嫁ぎます。昔から結婚というのは同盟や人質の意味合いが強く、政治的な面の方が色合い濃く出ている物でした。官兵衛も有力者の娘として光と結婚します。

余談ですが織田信長は身内愛が強い人間だったのか、妹達を政治の駒として使用せず、信頼できる部下と結婚させたみたいですね。例外:お市の方

 

さて光に話を戻します。光は体格は官兵衛より大きかったようですが、才色兼備の素晴らしい女性として黒田家でも褒め称えられています。名武将の陰にはいつでも良妻あり、がつきものです。政略結婚ではあったものの官兵衛も光以外の妻は持たず、仲睦まじい夫婦だったのでしょう。

永禄10年(1567年)、官兵衛は光と祝言を挙げました。官兵衛22歳、光15歳。

この日官兵衛の父、黒田職隆が謝辞の言葉を述べた後、隠居をほのめかす言葉を加えました。周囲は息子の結婚で感極まってつい口にしたのだろうと思っていましたが、職隆は44歳の若さで早々に隠居。家督を官兵衛に譲ってその後は息子を後ろからバックアップしていきます。よき父とよき妻に支えられ、官兵衛の飛躍が始まっていきます。

その後うっかりにより多大な迷惑を被るとか言っちゃいけない