大友宗麟、頑張る

さて頼りの道雪もなくなってしまい、この時の大友家の状態は

大 ピ ン チ !

正にこれに尽きる。下からやって来るのはチート四兄弟の呼び名も高い島津家四兄弟とそれを取り囲む戦闘民族の優秀な家臣の皆さん。そこへやってきたのは後の豊臣秀吉こと羽柴秀吉。ここで大友宗麟、奮い立ちます!正直もっと早く奮い立て欲しかった

この頃秀吉は最早日の本の中央部分を支配しています。この秀吉に島津家との取り持ちを頼みました。これを受けた秀吉、大友家と和平を結ぶよう島津家に交渉を行います。が。

「秀吉とかどこの猿の骨だし」

「いきなり出て来て何様だっつーの」

「つーかチクってんじゃねーよ大友マジ〆る」

「いくさ!いくさ!いくさぁああああ!!!!」

※あくまでイメージでお送りしています。

島津家は大友家との和平を拒否します。だからと言って単独で島津家とぶつかっては敗北必死。大友宗麟は京に上がって秀吉と謁見。この際に南蛮渡来の貢物などをして秀吉のご機嫌を取り、大友家に味方して島津家と戦ってくれるように頼みこみました。貢物に気を良くしたのか、秀吉はこれを承諾。こうして秀吉の九州討伐が始まります。

ここからの戦は大友家VS島津家だけではなく、豊臣家VS島津家となっていくのでした。

九州

丹羽家の顛末

さて今回は前のお話の続きであり、丹羽長秀最後の手紙を読んだ秀吉が「ちゃんとご子息に本領安堵するよ!」みたいな約束をした後のお話です。

この時、長秀の跡を継いだ丹羽長重は僅か十五歳であった。

所で秀吉は小牧長久手の戦の際に丹羽家の軍勢を総動員させておきながら丹羽家の所領について何も言及していなかった。そして長重が跡目を継いだ時に重臣成田弥八郎は家中の者達を集めてこう熱弁を奮った。

「長秀様は織田殿の御恩が非常に深い方であられたのに、秀吉という無道人に騙されて織田家の天下が奪われてしまう羽目になったのは一生の不覚と言うべき事である。その上大恩ある織田家の公達をすら殺そうという人間が、嘗て織田家の同僚であったという事を気にかけてまだ幼い我らが主君に大国を数多く任せよう、などと考えるだろうか?秀吉が越中に入る頃を見計らって、織田殿の御為義兵を挙げて佐々と挟み撃ちにしてこれを滅ぼし秀長様の恥を雪ぐ事こそ秀長様の供養になるのではなかろうか!」

この発言に丹羽家は揺れた。だがそうこうしている間に時間は過ぎ、この噂が秀吉の耳に入ってしまった。

秀吉は弥八郎を捕らえ死刑に処した。そして佐々成政が降伏すると、今度は丹羽家の主な家臣、長束正家、村上義明、溝口秀勝、青木宗勝、青木一重、寺西清行、上田重安、奥山正之といった人々を全て自分の直臣として召し上げ、その上で丹羽長秀の所領であった越前、加賀の地を没収してしまい、

「本領であることには相違無い」

と、『織田時代』の所領であった近江国内の三郡を、長重に与えた。

だがこの後丹羽家は二代目将軍秀忠によって息を吹き返すのだから、人生って分からないものですね。そんな秀吉、米五郎佐との約束を微妙に破る、というお話です。

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織田家全盛期の小唄より

織田家の重鎮でありながら、筆頭家老柴田勝家と肩を並べるほどの武将でもあり、鬼五郎佐と呼ばれるほどの武将であった丹羽長秀。しかし彼は今現在驚くほど影の薄い武将である。「織田家の武将と言えば?」と言った時に一体何人が彼の名前を上げるか甚だ疑問ではあるが、織田家全盛期である当時にもちゃんと彼の名前は出て来ているのである。

その小唄とはこうである。

「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に、退き佐久間」

この小唄にはきちんと意味がある。

まず佐久間とは佐久間信盛の事であり、彼は退却戦に非常に長けた武将であった。退却戦で良く殿を務め、味方の被害を最小に抑えた武将である。

そしてかかれ柴田とは柴田勝家の勇猛さを表している。鬼柴田とも呼ばれた彼の勇猛さはいくつもの戦場で発揮されている。

そして木綿藤吉は当時木下藤吉郎と呼ばれていた羽柴秀吉の事。 木綿のように丈夫で、とてもよく働いたその姿を木綿にたとえられている。

そしてどんじり控えし米五郎左こそが丹羽長秀をたとえた言葉である。これは「 地味だけど、実際は無くてはならない存在である」という意味らしい。

・・・戦国の世でもちょっと地味だとは思われていた丹羽長秀のお話であった。

でも「何かあるなら五郎佐にやらせとけ」と信長は長秀を非常に信頼して色々な仕事を任せていたんだよ!

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丹羽長秀の敵

さて、今回は少し寄り道して織田家の重臣なのに少し影が薄い気がする丹羽長秀についての事を少し紹介しましょう。

丹羽長秀は腹にできものが出来るという病気に侵されていました。そして危篤にまで陥ったのですがその時、彼もまた織田家の武将であったと言わんばかりの発言を見せます。

「たとえどのような病でであったとしても、我が命を失わせるのならばそれは正しく我が敵である。どうしてそのような敵を討たずして死ねようか!」

こう言うなり腹をかき切って腸を引きずり出した丹羽長秀。しかしそれを見てみると、奇妙な化け物が出て来ました。形は石亀のようで、くちばしは鷹のように鋭く尖り曲がっていて、背中には刀の当たった跡がありました。これぞ正に己を苦しめていた病魔だったのでしょうか。

その後長秀は自ら事の次第を記した手紙を書き、我が家を良いように処理して欲しいと書きしたためた手紙と共にこの怪物とそれを討った刀を添えて秀吉に贈ったとされています。

これを見た秀吉もまた驚きながらも、此方もまた自ら手紙を認めて「間違いなくご子息に本領を与える」と固く誓いました。長秀はこの返事を見て「もう思い残すことはない」と言って亡くなったとされています。何やらちょっとホラーな部分もあるこの逸話ですが何がホラーかというと

長秀が腹を割いて二日間生きていたという事でしょうか・・・。

そんな鬼五郎佐の壮絶な最期でした。

対決!四国の覇者

さて小牧長久手で織田信雄、徳川家康に結果的に大勝利を収めてしまった羽柴秀吉はちゃくちゃくと天下人への道のりを歩み始めます。まず向かうは西日本から南日本、中国地方を占拠していた毛利は既に組していますので、次に狙うのは四国の覇者となっていた長宗我部元親です。

長宗我部元親と言えば土佐出身の有名な戦国大名。ほぼ四国全土をその領地としていた武将です。当初は信長とも明智光秀を通してそこそこ友好的なお付き合いをしていました(そのため息子の名前が信親なのです)。これは奥さんが明智家の有力武将、斉藤利光の妹だったことによる微妙な縁戚関係を利用したものと思われています。因みに利光の娘は有名な春日の局。そしてこの春日の局の母親はかの有名な稲葉一鉄の娘です。戦国縁故事情。

さて、天下統一を目指す秀吉は重要な航路である瀬戸内の海を完全掌握したい、しかしそれには四国の勇である長宗我部元親を屈させる必要がある。そのため秀吉は四国征伐を開始します。

まず秀吉は元親に阿波、讃岐、伊予を返上するように迫りますが元親は当然ながらこれを拒否。こうして秀吉は四国征伐を遂行するに至った訳ですね。素直に返上されたらどうしていたんだろうか、なんてのは言いっこなしですよ!

あにうえとおぎいまる

さて長かった鬼武蔵のお話も前回で終わり、そろそろ新しい話に移りますがその前に一つ小話を。

徳川家康は秀吉との和睦の際に人質として息子・於義丸(於義伊丸)を養子に出します。この於義丸は秀吉の養子になり、成長して秀康と名乗った後結城家にまた養子に出され結城秀康の名で知られる人物となります。

さて彼、結城秀康にも色々な逸話がありますが、有名なのは彼の出生についての逸話です。彼は可哀想な事に父親、家康に認知して貰えずにいました。理由は諸事情あるのですが、そんな彼を可哀想に思った兄の信康は家康を自らの城に呼んで於義丸と対面させて、逃げようとする家康の裾を抑えて半ば無理矢理に父親と認知させたと言われています。

元々於義丸という名前も兄である信康がつけたとも言われているので、於義丸にとって信康は兄であり父親代わりの人物だったのかもしれませんね。ですがその信康は織田家が甲斐武田家との戦いの際に、信康の母親築山殿と共に武田家との内通を疑われ切腹に追い込まれています。事実、この内通は本当だったかは分かっていません。

その後、二度も養子に出された揚句に、比較的早くこの世を去った結城秀康ですが、彼は今生をどう思っていたのでしょうか。幸いな事に彼自身は徳川の跡目を継いだ腹違いの弟・秀忠との兄弟仲は比較的良好だったようなのが、せめてもの救いであったと思われますね。

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鬼武蔵と最期の遺言状

いい加減長くなりすぎている鬼武蔵こと森長可の逸話。最後はその残された遺言状について少し触れてみましょう。残されている彼の遺言状について抜粋すると、このような事が書かれています。

 

「残した茶器はいい奴は秀吉殿に上げて下さい。いらないのは弟に上げてね」

「もし私が討ち死にしたら、母上は秀吉殿に面倒見て貰って下さいな」

「忠政は今のまま、秀吉殿に仕えるように。絶対に私の後を継がせないで下さい」

「娘は町人に嫁がせて下さい。医師なんかに嫁がせて欲しいです」

「繰り返すけど忠政に兼山で跡を継がせるのは嫌にて候(太字原文まま)」

追伸・もし百万分の一にでも負けちゃったら皆で火に飛び込んで死んでくださいね!

 

最初から最後まで色々と突っ込みどころが多い、森長可こと鬼武蔵の最期の遺言状である。そもそもわざわざ百万分の一とか自分で言うのか?とか色々あるが、どれだけ弟が自分の跡を継ぐのが嫌だったんだとか本当に色々言いたくなるがそれは我慢しよう。

そしてこれを読んだ秀吉、涙を流した後に弟の忠政を兼山城主を継ぐように申し渡しましたとさ。遺言守られてないよね、そう思わせる鬼武蔵最後の逸話でした。

しかし彼の逸話を見る限り、この人が長生きしていたら歴史が大きく変わっていたんじゃないかと思わせる人間?ですね。

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鬼武蔵と役人3

さて今回も鬼武蔵と役人シリーズ第三段です!今回はどんな人が被害出てくるのか楽しみですね!

さて、時代は本能寺の変のあった後の頃である。時代の覇者は秀吉である。秀吉は熱田の地に大橋を完成させた。もう橋が出てくるだけで嫌な予感がしたら貴方も鬼武蔵のトリコです。

この橋について秀吉は「この橋は身分の上下を問わず、下馬させ、歩いて渡らせるように」と命じてあった。そこにご想像通り森長可が馬に乗ってやってきた。強烈なフラグ臭ですね

長可が馬に乗って渡ろうとするが、橋守たちはもちろんこれを押し止める。なぜなら可哀想な事に当然それが彼らの仕事だからである。

そして長可は彼らを切り捨てそのまま橋を渡った。これについて秀吉に抗議が来たが、

「鬼武蔵だから仕方が無い」

と許されてしまったという。戦国時代、特に森長可の生きている時代に橋守だけはしたくない、というお話である。え、違う?

因みにこの時も前回同じく家臣達はまた、死体を捨てたり血の掃除をしてから長可を追いかけたが、長可は「そう言う心使いはかえって不愉快だからしなくていいよ」とコメントを返したそうな。

さてこの時の橋守は浅野長政、秀吉配下の武将である。

要するにまたも森長可が切ったのは味方である。

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十万石の首

今回は小牧長久手の戦いでとある活躍をした徳川の武将、榊原康政のお話です。

榊原康政は小牧・長久手の戦いの際に戦場のあちこちにとある文章を書いた立て看板を設置して回った。ここにはとても達筆でこう書かれていた。

「それ羽柴筑前は野人の子。馬前の従卒。君恩忘れた悪逆の徒なり」

織田信長の子である織田信雄と戦う秀吉、主家である織田家を乗っ取った事を誹っての言葉である。だがこんな悪口を達筆で書かれた日には秀吉は大激怒した。激怒した秀吉は将を集めこう言い渡した。

「榊原康政の首を上げた者に十万石を与える!」

こうして榊原康政の首には十万石の値段がついたのである。かなりのお値段である。

因みにその後、徳川と羽柴は講和を結ぶ事になって小牧長久手の戦いは終結する。その際に家康のとりなしもあって、康政は秀吉に許される事になった。そして秀吉に勧められて館林城主になる事になる。

この館林城主となった康政の石高は十万石であった。

達筆で悪口を書きまくり、その悪口を言った相手のおかげで見事十万石を手に入れる事になった康政のお話。正に芸が身を助けたというか、世の中何がどうなって幸運が舞い込んでくるかは分からない、というお話です。でも皆さんは人の悪口を書くのはやめましょうね。事実でも罪に問われちゃいますからね。

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小牧長久手前の鬼武蔵

さて、小牧・長久手戦いで戦死し、敵方どころか味方からまで涙を流して大喜びされてしまった鬼武蔵こと森長可。織田家の重鎮の一人であり、異例の出世頭であり、織田信長から非常に寵愛されていた長可がなぜ、織田方ではなく羽柴方についたのかは分かってはいません。ですがその小牧・長久手の戦いの前に、秀吉方と長可にはこんな逸話が残っています。

秀吉は長可に使者を遣わし、自分に味方すれば駿河・遠江を与える、という条件で自分の方に引き込もうとした。が、鬼武蔵これを言われてこう返した。

「甲斐もよこせ。」

「いや無理です。」

この返答を聞き(実際にはもっと詳しいが)、長可はハラハラと涙を流し始めた。そして曰く、

「じゃあ甲斐の代わりに兼山と駿遠を下さい。」

「だから無理だっつの。」

さらに要求し始めたが断られた。当然である。使者が帰った後、長可は「自分は秀吉が出した条件で良かったんだけど、部下の皆にも城を持たせて上げたかったんだ」と語ったそうである。

言っちゃあ悪いが森長可が駿河と甲斐を貰って何するかと想像させて頂くと、天下争いに名乗りを上げるとしか想像できないのだが・・・後に秀吉、長可の討死を聞いて「これで俺も天下とれるわ!」と大喜びしたのはこの逸話も関連していたのかもしれません。

森長可、欲張ったのは部下の為なんだからね!というお話でした。

 

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