海賊衆の幕切れ・前

村上水軍の話が前回出てきたので、それにまつわる逸話と話をご紹介しましょう。といってもタイトル通り、物悲しい内容なのですが・・・・。

時代は天正14年4月、大内氏も既になく時代の権力は豊臣秀吉に集まりつつあった時代です。秀吉は九州攻めに先立ち、瀬戸内海における海の関所を全廃。翌天正15年6月には、有名な『海賊禁止令』を発令しました。

ところが当時ルイス・フロイスから「日本最大の海賊」と呼ばれた能島海賊衆の頭領、村上元吉は、そんな事はまるで気にせず、能島海賊はその後も堂々と通行料を徴収していました。その後、6月下旬には秀吉に屈服し大阪に向かう薩摩島津氏の船からも通行料を取るという事件を起こしてしまったのです。

これには秀吉も激怒、村上元吉の行為を「言語道断の曲事」と糾弾します。しかしこれに村上元吉の取った態度というのが

「我々が通行料を取っているだって?そんなバカな!証拠はどこにあるんですか?」

すっとぼけです。秀吉の糾弾を知らぬ存ぜぬの一点張りで通しました。さらに秀吉子飼いの大名である戸田勝隆や福島正則を味方にして、自らの行為を弁護させました。どうも村上元吉、ぐだぐだと言い訳を続けていれば、大陸出兵の構想などから水軍を必要としている秀吉はそのうち折れざるを得ないだろう、と考えていたようです・・・・。

龍造寺隆信、もう一人の娘お安の方3

隆信に利用され、夫を殺されたお安の方。彼女は自害しようと試みるも、果たせなかったそうです。その後、お安の方は松浦党の波多氏へ嫁ぐ事になりました。お安の方はこの頃から秀の前と呼ばれるようになったそうです。ですが波多氏には子がおらず、隆信の孫を養子に迎え入れる事になりました。またもやお安の方は隆信によって利用されたのでしょう。

さて、次は時の流れが大分進み、秀吉が九州征伐に訪れた後の事になります。この時波多家は遅参を秀吉に咎められ、あわや改易という事になりかけるも鍋島直茂のとりなしによって危機を逃れました。ですがその後、秀吉の朝鮮出兵の際にも遅参や軍令違反を犯して波多家は秀吉の不興を買う事になります。

その一方で、不運にもその美貌からお安は秀吉に目をつけられていました。秀吉の前に出向くように申しつけられるも、お安は秀吉への不服従の意思示しの為にわざとその前で懐剣を落として見せました。ですが逆にこれは秀吉の怒りを買い、波多家は取り潰し、夫は常陸に流される事になってしまいました。

その後お安の方は佐賀へ返り、出家して妙安尼と名乗って余生を過ごしたようです。時代に振り回された女性の、悲しい最期ですね。

しかし懐に懐剣だのは明智光秀の娘の玉などもやっているのですが、どうしてお安の方だけ怒りを買ったのか・・・まあ秀吉の機嫌一つだったのでしょうが。

 

官兵衛とお茶

さて、官兵衛の逸話を紹介し続けるのも今回で一区切りつけましょうか。秀吉や大名が茶の湯に興じていた事は有名ですが、果たして我らが黒田官兵衛は茶の湯に関してどんな考えでいたのか。今回はそれを窺わせる逸話です。

 

秀吉は兼ねての事より茶の湯に入れ込んでいたが、官兵衛は「狭い一室に刀を持たずに数人で入るなんて無用心すぎる」 としてその事に不満を抱いていました。そんな ある日、官兵衛が秀吉から茶の湯の誘いを受けます。しぶしぶ出かけた官兵衛ですがそこでは茶の湯は出てくる事無く、次の合戦についての戦略会議だけが二人の間で行われました。

この密談の後、秀吉は「これが茶の湯の一徳だ。 お前と俺が密談をしていたら他人は疑いを持つだろう。だが茶の湯と言えばいらぬ疑いを持たせずにいられるのではないか?」と言ったそうな。 この言葉に官兵衛は感服し、以後茶の湯をたしなむようになったといいます。

官兵衛一本取られたお話。ですが同時に秀吉の抜け目ない性格もうかがわせる逸話ですね。因みに官兵衛の友人である小早川隆景は茶の湯の席が嫌いだったようですね。確かに茶の湯には大金がかかりますし、茶の湯の席にも一長一短があるという事でしょうか。

さて、次回からは再び歴史を追い始めましょう。