大内義興、もてなす・後

さてさてまだまだ続く大内義興の将軍歓待料理。続きからいってみよー!

十献 大根、蒸し麦、御添え物羽しきうずら

十一献 刺身ぶり、鮎の煎物、はまぐり

十二献 いわたけ、うんせんかり、御添え物かき

十三献 つべた、やまぶき煎、くるくる(鰤のはらわた)

十四献 鳥の足、海老羹、御添え物ふりこ

十五献 さしくらげ、エイの煎り物、まて

十六献 はる、羽ようかん、御添え物ほや

十七献 小串さし雁、雪魚の煎り物、からすみ

十八献 刺身こち、海苔からみ、いいだこ

十九献 こがし海老、つまかさね、羽ふしあえ

廿献 ほろす、寸金羹、御添え物こごり煮鮒

廿一献 刺身はまち、鴨の煎り物、はらこ

廿二献 さわらのせんばん焼き、あかほご(カサゴ)煎り物、たちばな焼

廿三献 い貝、ぶりの煎物、けづり塩引

廿四献 もみさざえ、つぐみ煎物

廿五献 刺身名吉(ぼら)、ほっけ煎物、しとと焼

これにて終了!

何とこれで一回の宴会分です。大内義興が義稙をどれだけ歓迎していたか、重要視していた人物だったか伝わってきますね。しかしメニューを文字で見ているだけでも、この現代においても中々美味しそうなものが揃っていますね。

それでもこの量は多いと思うのですが・・・いやはや、食べきれないほど出すのも歓迎している証拠とは言いますが、これはやりすぎでは?と思ってしまいますね。皆さんは食べ過ぎには注意して下さいね!

大内義興、もてなす・前

さて大内義興が明応の政変で失脚した前将軍、足利義稙が明応九年に大内義興を頼って山口へと亡命してきた事は何度も書きましたね。義興は将軍が自分を頼って来てくれた事を喜んだのか、大歓迎をして丁重にもてなしました。さてその義興が どれほど喜んだか。義稙を屋敷に迎えた際の歓迎の宴会でのメニューから見てみましょう。

初献  きそく(串物)、雑煮五種

二献  刺身、鯉子付、ひしくいの皮煎り、えび船盛り

三献  ちじみ鮑、鯉のいりもの、たこ

供御(お勧め料理)  鯉の焼き物、塩引、せわた、鮒なます

供御  塩、かどのもの(数の子)、干鯛、子うるか

二御台  鳥の焼き物、鮭の焼き物、刺身鯛、御汁

三御台  大かまぼこ、雁の皮煎り、貝あわび、御湯、たこ味噌焼き

四御台  こごり、しろうお、雁の焼き物、御汁、くらげ、ほや

五御台  鮒焼ひたし、御汁いるか、ふと煮

御菓子  まつき、けづり栗、昆布、みかん、ところ(山芋の一種)、あめ、串柿、くるみ、のり

四献  小かまぼこ、鮒丸いりめ入、サザエ盛りこぼし、

五献 つのまた、三方せん、御添え物鵠(コウノトリ)生鳥

六献 刺身鱸、ひしお煎、あわび

七献  とっさか、まんじゅう、御添え物がざめ(わたりがに)甲盛

八献  小串さし鯛、はらか(鱒)の煎物、かせ(紫ウニ)

九献  ゆでにし、鶴煎物、かどの子(数の子)

えー既にお腹いっぱいになりそうですが、まだ歓待料理は続きます。

 

塵塚物語より

ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには

「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が毎日痛ましきことを訴えに来る。その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので身にしみるような哀しみはない。畢竟、自分が苦しんだことがなければ人の悲しみを理解できないものなのだ。私は先年、政元によって苦しめられたことにより下民への労りを思う事を学んだ。これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は非常に心細いものであった。そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを推し量ることが出来た。慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。第一に不憫の心を先に立てねばならない。つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。私は壮年の頃から常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ心に任せることのできない世の中であるので人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、時ばかり過ぎてしまった。今少し世の中にあって状況を伺い我が志を遂げたいと思うのだが、月日ばかり過ぎていき人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、憤りを胸に抱いたまま泉下に行くのだろうと思っている。人々は衰朽の状態になれば自らを察して心を諦めてしまう。だから一日でも生きているうちはその身に応じて人を扶助するべきなのだ」

足利義稙の、下々を想う心についての話です。流れ公方と誹られるも、誰よりも苦労したからこそ人の苦しみが分かった将軍。何とも呼んでいて胸に詰まる話です。

流れ公方

今回は流れ公方、足利義稙の最期と、そこに至るまでをご紹介しましょう。

永正6年10月深夜、足利10代将軍・義稙の御所を円珍なる荒法師が襲いました。北陸を転々としていた義稙は、2年前に細川高国らの後援により11代将軍・義澄を追放して将軍の座に返り咲いたが、円珍はその義澄が放った刺客でした。この円珍は記録上の最初の忍びとされています。

円珍らは義稙の近習をことごとく斬り倒し、義稙自身さえも手傷を負う有様だったが、とっさの
機転で屋敷中の灯りを消して隠れたところ円珍は近習の死体を義稙と誤認して去りました。この後永正10年3月、高国と対立して身の危険を感じた義稙は、誰にも告げずに御所から姿を消しました。突然の将軍の失踪に後土御門天皇までが憂慮してお言葉を発すも、当の義稙自身は逃亡先の甲賀で病気になり寝込んでいたそうです。

天皇周辺をも騒がせた事態に高国が折れる形で和解が成立し、京に戻った義稙。ですが義稙は大永元年3月、今度は堺に逃亡しました。しかも今回は後柏原天皇の即位式直前でした。武家の棟梁が即位式を欠席するという椿事に天皇は激怒し、義稙の将軍職は廃されて義澄の子・義晴が12代将軍となりました。義晴についてはまたいずれ。

帰る場所を失い今度は海路阿波へ向かう義稙。その船中に落首が貼り出されました。

『 誰ぞやこの 鳴門の沖に 御所めくは 泊り定めぬ 流れ公方か 』

それより2年後、大永3年4月、義稙はそのまま阿波で永眠しました。

この時代の将軍達はみな、多かれ少なかれ壮絶な人生を送っています。その内の誰が一体幸せであったのかは、今となっては誰にも分かりません。

将軍夜討ち騒動

さて当時の京は荒れ放題で・・・、という話を書きましたが、ここで当時の京がどうだったかよくわかる話をご紹介しましょう。

永正14年2月4日戌の刻(午後8時前後)、京三条の将軍足利義稙邸に夜討ちがあるとの風聞があり、世上騒動となり、驚き慌てる事もっての外であった。紫宸殿から三条御所の方を見ると、夜討ちを警戒するため三条周辺に掲げられた松明が、まるで晴れた夜空の星のように数多く輝いていた。陣下の衆が少々馳せ参じ、外様番衆(奉公衆)も、将軍家直属であるため三条御所に馳せ参じた等、云々。

しかし夜討ちの事はあくまで風聞であり、実否が解らず騒ぎも収まらなかった所、将軍に従っていた神祗伯の白川雅業が参内してその子細を申し上げるには、唐門役所において盗人の騒ぎがあり、その騒ぎを聞いた者たちが夜討ちだと勘違いしてしまったとの事である。全く奇異の事だと云々。

あとで聞いた所によると、細川京兆(高国)が具足を着たまま各所に礼参したと云々。全く稀代の事である。また、聞く所によると京の児女たちの間では、この日に天魔の祝儀があると言われていたそうだ。さてさて、洛中の騒動はその為だろうか?

二水記より抜粋したのもですが、この時の京の情勢の不安定さを、よく表している事件ですね。ほんの少しの事にも大騒ぎしている事からその様子が窺い知れます。

新着

「筆にするのも憚られる」

さて何度か名前が出てきた、将軍足利義稙。彼は13年にも及ぶ放浪生活をしたので流れ公方とも呼ばれる人物です。彼が流れ公方に至ったのは明応2年4月22日、右京兆・細川政元によるクーデター、いわゆる明応の政変が起こったからでした。京では義稙派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊されたとあります。

その時河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが義稙の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない通玄寺も襲撃に及びました。

そしてここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをしました。彼らはここに避難していた将軍後室、その女官達、さらには義稙姉をはじめとした寺の尼達に至るまでの衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出したのです。

丸裸にされたこの高貴な女性たちは致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよったそうです。

『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのも憚られる」と、この事件を憤りを持って記録しています。明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録ですが、当時の荒れ放題の夜盗らが蔓延る京の夜に丸裸で放り出された女性達、そして尼の身包みすら剥ぐ無法者ども・・・女性達はただ丸裸にされて放り出されただけなのでしょうか。

まぁ筆にするのも憚られるとあるので押して然るべきかもしれません。何とも後味の悪く、痛ましい出来事です。

自領に持ち込んでしまった不和・1

さて時はまた流れ永正四年。当時の管領細川政元が家督を巡る養子間の抗争の煽りで暗殺されました。いわゆる永正の錯乱ですが、これが大内家のその後の進退に非常に影響してきたとも言われてます。

養子の一人で暗殺の首謀者である細川澄之は、程なく澄元との抗争に敗北して自害しましたが、今度はその澄元と、澄之打倒までは澄元を支持していたもう一人の養子、高国が対立します。この高国が西国の雄と言われた大内義興と結んでその軍を山城に引き入れ、以後約十年にわたって畿内に大内軍が駐留することになったのです。

この時、見事上洛を果たした義興は、保護していた足利義稙を将軍職に復帰させて、自らも左京大夫(京兆)・管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になりました。また軍功を賞され山城守護も与えられました。

しかしその後も一時的に逃走した細川澄元らの幾内への侵攻は何度も行われ、最初の内は義輿と高国は敗北を重ね、防戦に追い込まれます。しかしその後見事澄元らを破り、京都の土地を取り戻したのです。この件を将軍に賞されてそれから長い間京に留まるようになりますが、その後、義輿と高国は段々と不和になっていきます。

そして義輿は京の地を離れ自国に帰る事になります。

 

大内義輿の家督相続

さて時は流れて戦国時代がやって来ます。戦国時代の大内家の当主は大内義輿、明応3年秋、父である政弘が病気により(一説には中風)隠居したため、家督を譲られて大内氏の第30代当主となりました。その際に当時の将軍・足利義稙より偏諱を受けて義興と名乗りました。

その後は北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、父の代の領土であった周防、長門、豊前、筑前に加え、安芸、石見の守護職を兼ねるほかに肥前の一部にも勢力を広げるなど戦国時代における大内家の全盛期を作り上げました。明応5年には大友氏の内紛に介入して、自らが擁立する大友親実を大友家の後継者にしようとするなどして大友家の家督相続にも介入にしていますが、これは失敗に終わっています。その後は九州探題の渋川尹繁を救援するという名目で肥前に出兵して少弐家を攻め、北九州に勢力を拡大しました。

しかし少弐家の3男・資元が文亀元年に挙兵し、その後は大友親治と連合して大内領に侵攻する気配を示します。しかしこの争いは大事にはならずに終わります。明応の政変で京都を追われた前将軍・足利義稙は山口にて大内家に保護されていました。この足利義稙の仲介により少弐資元と和睦し、大内家は北九州の勢力を保ちます。

しかしこう見ると、戦国の前から北九州では少弐家、大友家と大内家は北九州の覇権を争ってきた因縁ある間柄なのですね。歴史を見ていくと色々な「つながり」があって面白いですね。

新着