陶氏の最期・後

これを聞いた鶴寿丸、少しほっとしたのか問いかけました。

「そうか。そこにはふねでゆくのか?それともうまでゆくのか?」

「どちらでも。舟ならば彼岸への渡し舟が、馬ならば馬頭観音が馬となられてお迎えに来てくれます。ただその時には敵が太刀を並べて参り、私も太刀で若様を打ちまする。そこで少しも恐れず、笑っておれば父上様方に会いに行けましょう。もし心残り等して泣いてしまえば地獄と申す所へ行き、赤鬼青鬼どもの責め苦を味わい、父上様方に会えませぬ。その上世人は後々まで『あれが陶入道の子か』と笑うでしょう。」

「そうか。ちちうえにあえるのならばなんでこわがるものか。さぁはよう、ご主君のもとへまいろうぞ。」

その言葉に流石の房忠も涙を抑えきれず、遂にその目から涙が零れました。

「・・・?房忠、なぜないておるのじゃ?主君のおともをして人にもほめられるのに、なにがかなしいのだ?・・・・・そうか、わしは、しぬのじゃな。いやじゃ!ははうえや、うばとはなれてしぬのはいやじゃ!」

その涙に意味する所に気付いた鶴寿丸は泣き出してしまいました。しかしすぐにはっとして涙を拭うと、

「房忠!いまはこうでも長府へまいれば、かなしみもなきもせぬ!こころやすくおもえ!」

と言って顔を赤くしながらも、房忠の隣に立ちました。長府で義長と合流した鶴寿丸は見事に殉死を遂げ、介錯をした房忠も腹十文字に切って後を追ったといいます。

陶氏の、西国一の侍大将の血は確かに鶴寿丸に受け継がれていたのでしょう。

陶氏の最期・前

さて陶晴賢の死後、大内氏は急速に崩壊し、2年後の弘治3年3月には毛利軍が山口まで侵攻してきました。大内義長は重臣・内藤隆世の命と引き換えに長府へ退去する事を許されたのですが、毛利軍はあっさり約定を破り約束は破るためにあるんだよ!長府にも押し寄せ、義長は下関に程近い長福院で最後を待つばかりとなりました。

この時、陶氏の家臣・野上隠岐守房忠はひとり山口に残された晴賢の末子・鶴寿丸のもとに駆けつけ、六歳になる幼子に言いました。

「義長公は、毛利と申す人のせいで山口を追われて長府へお出でになりました。今は大勢の敵に囲まれており、近日中に御自害なさる由にございます。されば敵は若様をも捜し出し、殺さんとするでしょう。もはや落ち延びる事もかないませぬ。雑兵の手にかかるよりは長府へ参り、主君の義長公とともに逝かれませ。さすれば『幼少ながら死に場所を知っている、さすがは陶晴賢の子よ』と、世人こぞって若様を称えましょう。亡き父上や兄上方もさぞかし喜びまする。」

そう涙を押さえて説く房忠に、鶴寿丸は

「では、ご主君のおともをして、いずこへゆくのだ?」

と問いかけます。房忠は

「極楽という良い所です。水面に七宝のごとき花が咲き誇る池のほとりに、金銀瑠璃で飾った楼閣が立ち、天より音楽が降り注ぎ、世にも珍しい鳥が飛び交う、面白き所にございまする。その地にて、父上や兄上方にもお会いになり、ともに仏になるのです」

と答えました。

既にこの時点で涙が出てきそうですが、続きます。