嫡男の死亡は御家壊滅フラグ・3

尼子政久、享年31歳。将来を期待されていた謀聖の嫡男はその見事であった笛の音が原因でこの世を去る事になりました。政久に絶大な期待を寄せていた父・経久は当然のことながら激しく怒り狂いました。そして次男国久を呼び、磨石城を「必ず」落とすようにと告げました。

国久は決死の思いで磨石城を落としました。最終的に国久の猛攻に耐えられず、磨石城は降伏する事になりました。しかし城兵が降伏しても、経久の怒りは収まらなかったのです。

経久は降伏をした兵の一人も許す事無く、皆殺しにしました。一説には降伏する事を許さず虐殺したともあります。優秀なだけに、期待していただけに、その息子を失った父の怒りは大きかったのでしょう。その後、経久は政久の血筋が絶える事を悲しんでまだ幼い政久の次男である(長男は夭折)尼子詮久を後継としました。これが後の尼子晴久となります。

しかしこの件は後々に禍根を残す事になったとも言われています。特に晴久の叔父である国久はこの件が原因となり、後に甥の晴久との確執に繋がっていった、とも・・・。そんなに兄が可愛いか、とも言いたくなりますからね・・・。

この嫡男早死には四国の長宗我部家にも繋がるものがありますね。長宗我部元親もまた、嫡男信親を早くに亡くした事で乱心し、お家衰退壊滅フラグを立てる事になりました。出来の良い嫡男には期待しますが、失った時の喪失感も半端ないという見本の一つでした。

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四国の勇と、四国のその後

さて結局秀吉に膝を屈する形になってしまった長宗我部元親ですが、彼はなんとか土佐の領地だけは安堵される事になりました。その後、阿波は重臣蜂須賀正勝の子である蜂須賀家政に、讃岐の国は仙石秀久らに、伊予の国は小早川隆景に与えられる事になりました。この時、長宗我部元親は何を思った事でしょう。

折角長年苦労して四国統一を頑張ってきたというのに、途中で織田信長の横入りを受け肝を冷やす結果になり(ちゃんと挨拶したのに何でかやっぱり攻め込まれそうになった解せない)、さてそれが本能寺で宙に浮いた形になってホッとしていたら今度はその部下である秀吉がもっと壮大な部下を引き連れ攻め込んできた・・・文字にすると分かりやすい長宗我部元親の苦労歴。

そんな長宗我部元親ですが、破れてしまった物は仕方ない、不確かな未来を生き抜くぞ!とばかりに秀吉にクジラを献上しています。こいつぁなかなかダイナミックな貢物ですね!

さて四国を手に入れた秀吉、次に向かうは戦乱うごめく九州の地です。九州も九州でこの時荒れ放題の凄い事になってましたが、そこに乱入するははげねずみだのサルだの言われていたとある家の一武将。さて秀吉の九州征伐は上手くいくのでしょうか?

各地での乱戦

さて、四国の各地で激しい戦いが繰り広げられました。四国統一の夢を抱いてここまでやってきた長宗我部元親もまた家臣を率いて戦いますが、やはり強大な軍相手に戦うのは厳しいものがあります。

まず黒田官兵衛が讃岐の喜岡城、藤尾城を落として、長宗我部親武の守る植田城へ向かいます。がここで官兵衛は攻撃には移らず、羽柴秀長、秀次らが攻撃を開始していた阿波の木津城へと向かって本体と合流しました。木津城で防戦していた東条関兵衛は敵の新手の出現に驚き、城から退却しました。因みに植田城は長宗我部軍が用意していた罠が仕掛けられた城だったようで、官兵衛はこれを見抜いて本体と合流したと言われています。流石は官兵衛、希代の天才軍師ですね。

その後、秀長は長宗我部軍・谷忠澄の守る一宮城を落とし、長宗我部新吉の岩倉城を井楼からの砲撃により見事陥落させます。その頃伊予では毛利三万と伊予金子勢の二千が戦っていましたが、この兵力の違いは覆せませんでした。金子元宅は戦死し、元宅の弟、金子元春の守る金子城もたちまち小早川隆景によって落とされました。

次々と城を落とされていき、長宗我部元親はこの後に秀吉に降伏を申し出る事になります。四国の勇は結局信長の評した通り、鳥無き島の蝙蝠で終わるという悔しい終わり方を見せたのでした。

 

四国へ渡る軍団

さて前回から続いて四国征伐ですが、この四国征伐には秀吉は同行していません。この時秀吉は病気であったためとも、越中にいた佐々成政の動きが不穏だったためとも言われています。

この時の総大将は秀吉の弟である羽柴秀長、そして共に甥の羽柴秀次が淡路国経由で阿波へ侵入。この時軍師として黒田官兵衛も久々に登場しています。

秀長の率いる隊は三万、秀次も三万と大軍勢を率いています。この時備前で若くして跡目を継いだ宇喜多秀家もまた二万三千という軍勢を率いて讃岐へ渡っています。

そして小早川隆景もまた毛利勢三万を率いて伊予の国へ渡っています。羽柴軍の総勢はなんと十一万以上の大軍を率いている事になります。これに対し、長宗我部元親は領内の各拠点を固め、自身は阿波にある白地城に入って本拠地より出来るだけ遠い場所で秀吉の軍を防ぎきろうとしたのですが、その数は四万。数だけ見ると凄いのですが、奈何せん秀吉の軍の十一万が多すぎる。やはりこの膨大な数の差により、劣勢は否めない状況下での戦が始まりました。何でも一説によると馬の大きさからして違い、果てには兵士の具足まで色々格差がついていたようです。

さて、元親はこの軍勢差を如何にしてひっくり返すのでしょうか?

 

 

対決!四国の覇者

さて小牧長久手で織田信雄、徳川家康に結果的に大勝利を収めてしまった羽柴秀吉はちゃくちゃくと天下人への道のりを歩み始めます。まず向かうは西日本から南日本、中国地方を占拠していた毛利は既に組していますので、次に狙うのは四国の覇者となっていた長宗我部元親です。

長宗我部元親と言えば土佐出身の有名な戦国大名。ほぼ四国全土をその領地としていた武将です。当初は信長とも明智光秀を通してそこそこ友好的なお付き合いをしていました(そのため息子の名前が信親なのです)。これは奥さんが明智家の有力武将、斉藤利光の妹だったことによる微妙な縁戚関係を利用したものと思われています。因みに利光の娘は有名な春日の局。そしてこの春日の局の母親はかの有名な稲葉一鉄の娘です。戦国縁故事情。

さて、天下統一を目指す秀吉は重要な航路である瀬戸内の海を完全掌握したい、しかしそれには四国の勇である長宗我部元親を屈させる必要がある。そのため秀吉は四国征伐を開始します。

まず秀吉は元親に阿波、讃岐、伊予を返上するように迫りますが元親は当然ながらこれを拒否。こうして秀吉は四国征伐を遂行するに至った訳ですね。素直に返上されたらどうしていたんだろうか、なんてのは言いっこなしですよ!