握り飯と紹運・宗茂親子の話

えー、聊か今回は意味不明なタイトルかと思いますが、お付き合い願います。

立花鑑載討伐の際の、食事時の逸話です。

この時夜討ちの後で(数説あり)兵士達は食欲がなく、弁当の握り飯を食べられたのはほんの数名でした。食べた者達も戻したり喉に詰まらせたりと散々でしたが、紹運は

「男たるものこれから死ぬかもしれない時に飯ぐらい食えないでどうする!」

と家臣達を励ましながら率先して握り飯を五、六個素早く食べたと言われています。それお腹空いてただけとちゃうんかと

さてこの良く分からない逸話ですが、実は宗茂にも似たような逸話があります。

対して此方は秀吉による朝鮮出兵時の話です。この時も兵士達の疲れや疲労はピークで食欲がなく、また無理をして食べた家臣達が宗茂の前で食べた物をリバースしてしまいました。でも宗茂もまた紹運の血をひく息子、それを気に掛けず凄い勢いで握り飯を食べたそうです。だから腹減ってただけとちゃうんかと

こんな所でも何だか親子なんだなぁと思わせてくれる紹運と宗茂。因みに宗茂の義父・道雪も食のこだわりがあり「男なら鮎は頭から食すもの!」みたいな所があります。戦国時代はご飯を食べるのにも一苦労という話ですね!多分違う

高橋紹運と宋雲尼

今回は高橋紹運と、その妻の宋雲院、宋雲尼の話です。

元々、この結婚を決めたのは紹運の兄である吉弘鎮信でした。兄は弟の為の縁組として、同じ大友家家臣の斉藤鎮実の妹を弟の嫁にする事を約束しました。が、その後合戦に次ぐ合戦が続き二人の婚姻は伸びに伸びてしまいました。

漸く落ち着いた紹運は鎮実に対面して遅れを詫び、結婚の日取りを決めようと申し入れました。しかしこの申し出を鎮実は断ります。実はこの時、宋雲尼は病気(一説には天然痘)により痘痕顔になってしまい、容貌が醜くなっていたそうです。流石にその妹を紹運の嫁にするのは忍びなく思って鎮実は断りを入れたのですが、紹運はその言葉に驚いて答えます。

「思いもよらぬ事を申されますな。斉藤家といえば代々武勇の誉れの高い名家であり、だからこそ兄が私の嫁にと望んだのです。それを容貌が醜くなったからと言って断る事は不義理ではありませんか。それに私は妹殿を浮ついた気持ちで嫁にしたいと思っているのではございません。お約束通り嫁に来て頂きたく思います。」

紹運の義理の高さが窺い知れる話です。その後結婚は恙無く進行し、二人は仲の良い夫婦となり六人もの子供に恵まれました。その内の一人が、後の立花宗茂です。

そして戦国の世には珍しい事に紹運は宋雲尼以外の妻をけして持つことはありませんでした。

生き残った者の辛さ・2

ですが大膳、忠長の誘いに、

「勿体ないお言葉ありがたく思います。ですが、この期に及んでそのような望みはありません。主君の最期に遅れ、お供が出来なかった事がただただ残念でなりません。お早くこの首をはねて頂きたく思いますが、最後にお願いしたき事がございます。私の首に、立花城からの返書がかけてあります。どうかこれだけは、私の首を落とした後、立花城に返して頂きたいのです。もしそれが叶わぬなら、武士の情けでございます。手紙をご覧になるのは私の首をはねた後にして頂けるように、お願い申し上げます。」

大膳は涙を浮かべてこう言いました。これを聞いた忠長もまた涙を流しながら、

「これぞ誠の武士である。その言葉、振る舞いで高橋紹運殿が如何なる名将であったという事がよく分かる。この者を殺してはならない。また、その書状も見る必要はないぞ。大切にしまって立花城へ帰られると良いだろう」

こう返しました。そして縄を解いて刀を返し、何と馬を与えて警護の足軽達までつけて立花城まで送り返したといいます。また、忠長はこの時紹運が自らに充てた手紙も大膳に持たせたとも、一緒に入っていた息子達への手紙を持たせたともあります。最後まで主君に忠義を誓うその様も、敵であれ礼儀を尽くすその態度もまた、双方共に立派ですね。

九州

生き残った者の辛さ・1

さて、もう暫く岩屋城での話が続きます。今回は高橋紹運の家臣の、谷山鎮實、通称・谷山大膳という者の話です。大膳もまた紹運に仕える忠義の将でしたが、彼は岩屋城の戦いで討ち死をしていません。

彼は岩屋城の落城前日に、紹運の命令を受けて立花山城に使いに出ました。その後、決死の覚悟で島津軍の包囲網をかいくぐって岩屋城に戻りました。しかし大膳が帰ると、どうも岩屋城の様子がおかしい。何があったのかと思っている間に大膳は島津兵に捕まって、総大将の島津忠長の前に連れ出されました。

既に岩屋城は落城し、彼の主君である高橋紹運も自刃していたのです。

慣れ親しんだ城の落城、主君の切腹、仲間達の壮絶な討ち死にを知った時の大膳の心境とは、一体どのようなものであったでしょうか。一人生き残った彼の心の内は、量り知れるものではないかもしれません。

大膳は島津軍の尋問に臆する事無く自らの生命を名乗り、紹運の命を受けて立花山城に使いに出ていた事を述べました。その毅然とした態度に感じ入った忠長はその身を惜しんだようです。島津家に仕えてみたらどうか。もしそうしたのであれば、今までと同じだけの俸禄を与えて召抱えよう、と破格の申し出を大膳にしたのです。

九州

屋山の小袖

高橋紹運の部下に、屋山中務少輔種速、通称屋山中務という武将がいます。紹運の腹心であった彼もまた、岩屋城で壮絶な討死を果たしています。

そんな彼には太郎次郎という息子がいました。岩屋城の戦いの際に彼はまだ13歳。本来ならば避難する所を彼は母親に無理を言って父親とその主君が残る岩屋城に、母親と共に留まりました。

間もなく激し戦が始まり、太郎次郎の父、屋山中務も壮絶な討死を遂げたという報告が入りました。父の討死を聞いた太郎次郎は母親の制止を振り切り、一人で島津軍に切りかかっていきました。幼い子供を切る事を忍んで、島津軍の兵達は何とか生け捕りにしようとしましたが太郎次郎は手がつけられず、最終的に一人の兵が一太刀で太郎次郎を切りました。これは、少しでも苦しませずに、という思いだったのかもしれません。

しかし夫に続き息子まで失った母親はその場に倒れてしまいました。彼女の手には、息子の着物の片袖が残されていました。息子を止めようと必死に掴んで切れた片袖です。彼女は日々、その片袖を眺めて残りの生を生きたそうです。この太郎次郎は岩屋城戦死者名簿の中にその名が刻まれています。

そしてその片袖は、「白麻地藍文」として屋山家子孫の元に秘蔵されているといいます。

苛烈な夫人の逸話が多い九州ですが、このような話もまた、多くあるのです。

義将の首

岩屋城にて壮絶な最期を遂げた高橋紹運ですが、その自刃の際にこんな逸話が残っています。兵の殆どが忠義を果たし討ち死にしていく最中、島津の攻勢も厳しく、もはや岩屋もこれまでと紹運は自刃を決めました。この時、火を放って死体を焼いて、首を敵に渡さないように致しましょうという意見が出ました。紹運の、主の首を敵方に渡して辱めを受ける事を懸念した意見であったのかもしれませんが、紹運はこれを断り、こう返しました。

「それは無用の気づかいである。敵に首をとらせてこそ義を守って討死した事が分かるのだ。死体が残っていなければ逃げたと思う者もあろう。武士は屍を晒さぬもの、というが、それは死ぬ場所によるのだ。敢えて敵方に首を取らせよ。」

こうして紹運は切腹、その首は島津忠長の元へ運ばれました。この時、紹運の首と共にその最後の手紙が忠長の元に届けられました。そこには

「此度の戦もひとえに義によってである事を理解して頂きたい」

と書いてありました。それを読んだ忠長は涙を流し、床几を降りて身を正しました。恐らくそれは紹運への気使いだったのでしょう。そして

「たぐい稀なる勇将を殺してしまったものよ。この人と友であったなら、いかばかり心涼しかったであろう。弓矢を取る我が身ほど恨めしいものはない」

そう涙して、紹運の遺体共々、討ち死にした者達も丁重に弔ったそうです。

高橋紹運の覚悟

島津方も岩屋城を攻め始めますが、紹運の守る岩屋城は士気も高く、兵の抵抗も激しいものでした。何とか被害を最小に抑えるべく、再び島津方は降伏交渉を行います。しかし今回のは降伏勧告とは違い、高橋方に最大限に譲歩した内容でした。降伏ではなく、和議を結ぼうという考えです。そこには名将・高橋紹運と、その紹運に命を捧げんと奮戦する将兵達の命をも救おうという考えもあったのかもしれません。

ですが紹運はやはりこれも丁重にもてなした上できっぱりと断り、将兵一同城を枕にして討ち死にする構えであると伝えます。そして島津忠長はこれに対し覚悟を決め、岩屋城へ総攻撃をかける事を決めました。

紹運はこの際、高櫓から指揮を取り、数珠を片手に討ち死にする死者を弔いながら奮戦しました。そしてその後は自らも打って出て、落城寸前に自刃して果てました。その介錯は配下の吉野左京介が行い、自身も返す刀で後を追ったと言われています。

岩屋城に籠った763名は全て討死、または自刃。これに対して島津家の被害は5000以上にも及ぶ大打撃でした。城兵達は皆、最後まで忠義を尽くして戦い続けたのでしょう。

高橋紹運辞世の句は

「流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
「屍おば 岩屋の苔に 埋みてぞ 雲ゐの空に 名を止むべき」

岩屋にて壮絶な最期を遂げた高橋紹運以下763名は、今もなおその名を語り継がせています。

九州

親子の交わした最後の会話

また、降伏勧告などを行ったのは島津家だけではなく、豊臣家の名軍師・お久しぶりの黒田官兵衛や、息子の立花宗茂からも、岩屋城は地の利が悪いので守りにくいので宝満山城で籠城戦を行ってはどうかいう手紙が届いています。

しかし紹運はそれを承諾せず、その使者を丁重に持て成して返事を持たせ、息子の元へ返しました。

「宗茂の言う所は至極もっともであるだろう。だが地の利は人の和に敵わずとも言う。いくら堅固な城に籠っても、人の心が一つに纏まらねば意味をなさぬ。我が家は今や、滅びの時を迎えているが、これは世の流れ。滅びの時が来たのならば如何なる堅固な城に籠ったとしてもこれからは逃げられはしないだろう。それならば慣れ親しんだ城を枕として、武士の本懐を遂げて死ぬ事こそ本意である。この岩屋の城に籠って戦えば十日ほどは島津を足止めして、敵の三千ほどは討ち取って見せよう。さすれば次に立花山城に攻め入ったとしても更に日を稼ぎ、秀吉公の援軍も到着して宗茂は生きながらえる事が出来よう。我が命が此処に果てようとも宗茂さえ無事であるならば今は無き道雪様に対しても面目が立とうというものである。」

これが、高橋紹運、立花宗茂の最後の会話となりました。

九州

島津方の降伏勧告

討ち死にを覚悟して岩屋城に籠る紹運に、島津方より降伏勧告が届きます。名将と名高い紹運と戦う事は島津方にとっても惜しい事だったようで、三度にも渡って島津方より降伏勧告が下されたようです。そのひとつにはこうあります。

「長年に渡る高橋殿の忠義と今その死をもって城を守ろうとするお覚悟は敵ながら真にお見事。しかし貴方の主君である大友親子はその忠義に値する方とは思えず、対するに我が主君島津義久様は信義をもちて人に接する方であり、今や九州の覇者たるお働きを成されております。城兵の助命と本領安堵を取り計らいますので降伏して城を明け渡しては如何でしょうか」

これに対して紹運は

「生者必滅、盛者必衰は世の習い。ですが主家が勢いのある時には忠義を尽くし、衰えたる時に命を捨てる事を惜しむとあっては武士の名折れ。その受けた恩を忘れては畜生になり下がるでしょう。逆にお聞きしますが貴方は島津家が御家の滅亡時には命を惜しみ、我が命可愛さに他家に走るのでしょうか?私はそのような事は出来ぬと考えております。」

見事にこう言い切った紹運には、敵味方区別なく称賛の声が上がったそうです。紹運の父もまた大友家に尽くし、一族の殆どがその窮地に奮戦して命を落としています。義理固く、忠節に溢れた一族だったのでしょう。

九州

岩屋城の戦い

岩屋城に攻め寄せる一軍を率いるのは島津家当主・島津義久の従兄弟・島津忠長。忠長自身も名将でありながら、率いる兵はなんと二万人余り。一説には五万人とも言われていますが、流石にこれは少し多すぎではなかろうかと思ったり・・・。(島津家の日向侵攻に合わせて、各地の豪族達が集合する形になって人数が多くなったそうです)

これに対する高橋紹運の岩屋城の城兵は763人。(南無三と覚えて頂くと覚えやすい)

今だ嘗てないほど人数の差は絶望的です。しかし紹運も何も考えなしにこの城に籠った訳ではありません。

この岩屋城は島津勢が最初に攻撃する拠点であり、ここを迂回されると次に控えるのは息子達の守る立花城と宝満城。立花城は盟友の道雪の城であり、息子の宗茂がいる。宝満城には息子の統増のみならず、紹運の妻や岩屋城から逃げ出した女性達や子供といった非戦闘民族が多く籠っていました。岩屋城を抜かれてしまえばこの二つの城に島津軍は襲いかかり、膨大な被害が出るでしょう。そうすれば大友本家を守る事ができません。

ですがここで島津家に大きな被害を与えておけば、秀吉の援軍が間に合うかもしれません。

紹運は玉砕覚悟で、岩屋に籠った城兵達と島津家と戦う覚悟を決めたのでした。全ては主君大友家の為に、高橋紹運の名を知らしめた戦い・岩屋城の戦いが開始します。

九州