西牟田家周と六五郎橋1

では今回は沖田畷のその後、龍造寺領内で起こったとある事についての逸話を一つ。

西牟田家周という武将がいました。その家周が支配していた地域、筑後には国城島村という村がありました。家周は当時、龍造寺配下にありました。ですが沖田畷の戦いで龍造寺家の当主・龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に討ち取られて、龍造寺家は明日を知れぬ状況に陥っています。

そんな中、豊後の大友氏の侵攻の報がきました。当主が討ち取られた今を好機と見たのでしょう。これに対抗すべく、家周はすぐさま行動を開始します。

家周は大友軍の来襲に備えて、城島の地の利を生かした城を築き上げる事を庄屋の樽橋六佐衛門に命じました。総出で死に物狂いになって工事をし始めました。筑後川の石垣は敵の這い登りを防ぐため、水面から垂直に組み、川に面しない三方には四重五重にも壕を掘りました。そして一番外にある壕の外に、水草や堆肥を埋めたりなどして足を取られやすいように工夫までなされていました。

ここで一番の敵は、時間でした。

工事は終わらないのに大友軍は進んでくる、しかもその将は音に聞こえた名将・立花道雪だと言うではありませんか。そこに加えて梅雨の末期だった事もあって大雨が続き、筑後川の水位が増していきます。増水してしまえば石垣も組めず、壕も掘れません。

六佐衛門は神主を伴い、神主を伴って水辺に祭っていた水神の祠でご託宣を仰ぎました。そこでは思いもよらぬご託宣がありました。

隆信の母・慶誾尼

さて百部賢兼の妻の話が出てきた所で、もう一人九州の、龍造寺家の女傑の話をしましょう。龍造寺隆信の母、慶誾尼です。

彼女は龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ隆信を産みました。ですがその後、本家一族が謀略により殺害され、息子の隆信が当主となります。この時未亡人となった彼女は出家し、慶誾尼と名乗りました。

分家出身で本家にはまだ敵が多い息子を補佐して、慶銀にはよく働きました。隆信も母親には頭が上がらなかったそうです。この時慶誾尼が隆信に必要と思ったのは、優秀な補佐官です。そしてそれは身近にいました。隆信の従兄弟筋に当たる、鍋島直茂です。

当時妻を亡くしていた直茂の父・鍋島清房に新しい妻を迎えた方が良いと必死に説き伏せ、清房もその勢いに押されて会う事を約束。

しかし顔合わせの時、やってきたのは慶誾尼本人でした。清房は恐い恐れ多い事ですのでと必死に辞退しようとするが、あれよあれよと言う間に二人は結婚。これにより直茂と隆信は義兄弟となり、直茂はその後、隆信によく尽くしていきます。隆信が島津に敗れた時、直茂を後継者に推したのもこの慶誾尼でした。

しかもこの慶誾尼、島津家相手に凄い事もやらかしています。島津家の四男・家久が隆信の首を持って降伏勧告に来た時、「さような縁起の悪い敗将の首などいらぬ!それを持って薩摩に帰るがいい!}と追い返したそうです。

さてはて、やはり九州の女性は女傑が多い・・・

女丈夫・百武賢兼の妻圓久尼

今回は沖田畷のその後の、龍造寺四天王の一人・百武賢兼の妻のお話を一つしましょう。賢兼が大恩ある蒲池攻めをした際に、隆信の出陣要請を無視する夫に具足を投げつけたあの奥さんです。

龍造寺隆信の死後、大友方の武将達もまた隆信の領地に攻め寄せて来ました。領内を攻めあらす大友家は、賢兼が守っていた蒲船津城に押し寄せて来ます。この時城に籠っていたのは、沖田畷で夫を失い未亡人になっていた圓久尼でした。夫亡き後、彼女は鍋島直茂の命により夫の在世時と変わらずこの城を守り続け、女城主となっていたのです。

この圓久尼、女ながらに比類なき豪の者と言われ、背は高く髪は長く、大力であり荒馬も乗りこなすという人物でした。流石は百武の妻、女傑ですね。

この時圓久尼は累代の家人達を引き連れて城にいたのですが、大友家の来襲を聞くと大薙刀を横たえ城の戸口まで出て、味方を励ましながら頑強な防戦を行いました。圓久尼は良く城を守ったようで、榎木津要塞より援軍が来るまで城を守り通し、援軍が来た後は共に戦って大友家を退けました。大友家の者達も蒲船津城の攻略は諦めて坂東寺へと撤退しました。

夫の亡き後も、気丈に城を守った女丈夫・圓久尼。百武の妻の名に恥じない働きです。

しかし九州、色々な意味で女性が強い逸話が多いですね。九州男児を陰から操るのは、九州女傑と言った所でしょうか。

龍造寺四天王の其其の最期の事

 

さて今回は五人そろって四天王でおなじみ、龍造寺四天王の各々の最期について明記していきましょう。

【龍造寺四天王の筆頭・成松信雄】

沖田畷の戦いでは主君・隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる。

【百人にも勝る武・百武賢兼】

龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる。沖田畷の戦いでは主君・隆信を守り、勇戦の果てに討死。

【鍋島家より直参・江里口信常】

沖田畷で主君・隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久の太腿に刀傷を刻むも討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称され、一族の者がいれば召し抱えたいとまで言わしめた。

【名門千葉氏の出・円城寺信胤】

沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦。その後討死。

【遥々京か来た・木下昌直】

隆信の戦死を知り、山の手を攻めていた隆信の嫡男・政家、隆信の義弟・直茂の軍の殿を務めた。その際に討死したとも言われるし、逃げ延びたとも言われており生死が定かではない。

 

見ればわかるように、その全てが壮絶な討死をしています。龍造寺隆信は最期の非道さが目立ちますが、このように主の為に奮戦する部下がいたという事は、やはり優れていた大名だったという事なのでしょう。特に歴史上の人物は、ある一面だけ見て評価を下さないように注意したいものです。

 

 

 

沖田畷のその後

有馬・島津連合軍に兵をことごとく討ち取られただけでなく、当主の龍造寺隆信まで失った龍造寺家。ですが被害は当主の隆信だけにはとどまりませんでした。

この沖田畷の戦いで龍造寺家は鍋島直茂の弟である・龍造寺康房、小河信俊をはじめとした、龍造寺家の重臣で龍造寺四天王と呼ばれた五人の武将、成松信雄を筆頭とした江里口信常、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直らの五人までもを討ち死によって失っています。

総大将を失って総崩れとなった龍造寺軍は本拠地の佐賀城まで撤退。島津家の新納忠元相手に善戦していた鍋島直茂も撤退を余儀なくされました。

その後、隆信の嫡子であった龍造寺政家は島津家に降伏。その後の龍造寺家は政家は当主の器に乏しいと判断され、隆信の義弟で従兄弟関係にあった鍋島直茂が国政の実権を握る事になります。但しこれは龍造寺家の相違であり、隆信の母・慶誾尼の意向でもありました。この後、ある意味雇われ大名のような扱いになった鍋島直茂の苦労の生涯が始まります。

衰退していく龍造寺家に対して、大勝利を収めた島津家はここで一気に勢力を拡大。九州で最大の大名家となり、九州制覇を目指して進む事になります。

・・・秀吉が来るまでは。

九州

龍造寺隆信の最期

龍造寺軍本隊が壊滅していく中、一方の山手の方では鍋島直茂と新納忠元が激突していました。この時鍋島直茂の名采配により、実は島津方の方が押され気味な状態にありました。ですがやはり新納隊も手強く、直茂は他の隊を救出には行けない状態にあったのです。

そして浜手では戦況の有利を見て、森岳城の本陣にいた有馬軍が出撃。伊集院忠棟の隊と合流して隆信の息子達の隊を壊滅させ、勢いのまま隆信本体に向かって押し出した形になっていました。

この時点で隆信率いる龍造寺本体は、家久軍の猛攻と撤退してきた先手の隊により大混乱。敗走する部隊は畷の為に散り散りの状態で、もはや軍と呼べる状態ですらありませんでした。そこに押し寄せる有馬・伊集院軍。優位だった鍋島隊も段々と敗走する味方の為に統制がとれなくなって行きます。

龍造寺本体では龍造寺筆頭と呼ばれた成松信雄が死を覚悟して隆信を稼ぐために奮戦を始めます。しかしその間に逃げようとした隆信でしたがこの当時隆信は肥満体すぎて馬に乗れず輿に乗って戦に出てきていました。その為目立ちやすく、最終的に輿持ちが逃走してしまったために島津家の川上中堅に切り捨てられ首を落とされました。

こうして沖田綴りの戦いは有馬・島津連合軍の大勝利に終わり、肥前の熊・龍造寺隆信もその最期を遂げました。この戦いで主力部隊を失った龍造寺家は、その後どんどんその力を失っていきます。

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大軍ゆえの失態

予期せぬ赤星隊の猛攻と、畷に進む事しか出来なくなった軍、そこに討ち込まれる島津の鉄砲隊による一斉射撃、油断による防衛策の放棄、積み重なっていった事態は非常に重くなって龍造寺軍先手を襲います。壊滅した龍造寺軍先手は当然ながら撤退を始めます。

ですがここで再び、大軍と畷が敵となって撤退すら阻みました。

事情が分かっていない後続部隊が次々と狭い畷の報に押し寄せてきたのです。撤退できないまま押し出される形で鉄砲隊の餌食になる先行部隊、そして押し出てきた後続部隊もまた、訳の分からぬまま鉄砲隊の的となるだけでした。そうこうしている内に後続部隊もやっと先行部隊がどんな被害を受けているか悟り、その一部が左右へと迂回を始めました。ですがここは湿地帯。周囲に広がるのは足場の悪い泥田です。

足を取られた部隊の機動力はあっという間に失われ、その場に立ち往生する形になってしまいます。その上そこを狙い撃ちしてきた連合軍の別働隊に襲われ、こちらもまたことごとく討ち取られてしまうのでした。

家久もまた連合軍の優勢を見るや大木戸より出陣、既に軍の統制を亡くした龍造寺軍がこれに対応できる訳もなく、もはや事態は島津軍による一方的な殺戮の場と化してしまったのでした。

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先を阻む畷

決戦は夜、龍造寺軍の先手が何かを開始すると同時にスタートします。龍造寺軍は大木戸を守っているのが赤星統家の僅か50名の部隊である事を見ると、その大軍の強みで一気に抜き切れると過信していました。しかしここで狭い畷が、予期せぬ敵となって大軍を阻みます。

狭い畷に殺到した龍造寺軍の大軍は後続の部隊の馬や人まで入り乱れ、ただ前進移動するだけの軍となってしまいました。しかもここで赤星統家が奮戦します。恐らく、先に人質に出されていた息子と娘を磔にされて殺された恨みもあったのでしょう。統家の奮戦と畷に阻まれ、龍造寺軍は一時押し返される形になってしまいました。

そしてこの赤星隊が龍造寺軍相手に奮戦している間にも、その背後で軍略の家久の策が密かに動いています。

この時、家久の命を受けた鉄砲隊が大木戸の背後に移動させられていました。そして龍造寺軍に対して一斉射撃を開始したのです。大木戸を一気に突破する予定だった龍造寺軍は移動の邪魔になると楯や鉄砲除けの竹束を捨てていたために、無防備な状態でした。そこにこの一斉射撃、予期せぬ事態に大混乱する大軍。多くの死傷者を出して龍造寺軍の先手は壊滅し、敗走に追い込まれる形になりました。

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畷の利用策

龍造寺軍が50000に対して島津・有馬連合軍は僅か8000。戦力の不利は火を見るより明らかです。この戦で有馬晴信は島津の後詰を待つ作戦を主張します。とにかく時を稼ぎ、島津からの大軍の援軍を待とうというのです。

ですがこれに対し、島津家久が主張したのは積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅策でした。ここで家久は戦場を島原の北方にあった沖田畷に決めました。当時の島原周辺は広大な湿地とが広がっており、前山と森岳城との間にある道も幅が大変狭かったのです。この湿地帯にあったのが沖田畷です。

島津・有馬はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳城には柵を築き上げて防衛の強化をして徹底的に守りを固める作戦を行いました。幸運な事に、龍造寺隆信が率いる大軍の進軍が遅かったために龍造寺軍到達前にこれらの作業を終える事が出来ました。

この時の連合軍の布陣は総大将の晴信が森岳城に本陣を敷き、海岸線には伊集院忠棟ら1000余、内陸側の大木戸には赤星らの50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠元ら1000は前山の山裾に伏兵として潜みました。

対する龍造寺軍は山手に鍋島直茂、海側を隆信の二男と三男、そして中央の本隊を率いる隆信が布陣。森岳城を一気に抜く作戦で戦いを開始しました。

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龍造寺隆信と赤星統家

さて沖田畷の戦いですが、この戦いには元龍造寺家家臣であった赤星統家も参戦していました。でもその参戦の経緯には、中々悲惨なものがあります。

田尻攻めの際には龍造寺軍として参加したものが多かったのですが、この際に赤星統家は参戦しなかったようです。この時龍造寺家と赤星家は実質上の主従関係にあり、統家も息子を隆信の元へ人質として送っていました。それにも関らず統家は隆信の出陣命令を無視し続けました。

だが何度使者を送っても統家は出陣しない。そればかりか、出陣要請に対しても失礼な態度を取り続けるという態度。これに隆信は激怒、ならばと取った行動が

「統家殿が都合が悪くて出陣出来ぬとあれば仕方ない。代理の者でも構わないぞ。そうだ赤星家にはご息女がおられた筈。御父上の代わりに隆信公にお目通りして頂きましょうぞ」

使者が隆信の命令にそって連れて行ったのはまだ八歳になる統家の娘。これを屋敷に踏み込んで捕らえると隆信の元に連行。

しかし統家、隆信に従うどころか今度は島津側と好を通じ始めました。これに怒り狂った隆信は赤星領の前まで二人を連れていき、息子と娘を磔にして殺してしまいました。人質を取るのは戦国の世の倣いですが、殺害された人質はそう多くはありません。

これもまた一つ、隆信を肥前の熊と言わせた話でしょう。

 

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