大内義輿の家督相続

さて時は流れて戦国時代がやって来ます。戦国時代の大内家の当主は大内義輿、明応3年秋、父である政弘が病気により(一説には中風)隠居したため、家督を譲られて大内氏の第30代当主となりました。その際に当時の将軍・足利義稙より偏諱を受けて義興と名乗りました。

その後は北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、父の代の領土であった周防、長門、豊前、筑前に加え、安芸、石見の守護職を兼ねるほかに肥前の一部にも勢力を広げるなど戦国時代における大内家の全盛期を作り上げました。明応5年には大友氏の内紛に介入して、自らが擁立する大友親実を大友家の後継者にしようとするなどして大友家の家督相続にも介入にしていますが、これは失敗に終わっています。その後は九州探題の渋川尹繁を救援するという名目で肥前に出兵して少弐家を攻め、北九州に勢力を拡大しました。

しかし少弐家の3男・資元が文亀元年に挙兵し、その後は大友親治と連合して大内領に侵攻する気配を示します。しかしこの争いは大事にはならずに終わります。明応の政変で京都を追われた前将軍・足利義稙は山口にて大内家に保護されていました。この足利義稙の仲介により少弐資元と和睦し、大内家は北九州の勢力を保ちます。

しかしこう見ると、戦国の前から北九州では少弐家、大友家と大内家は北九州の覇権を争ってきた因縁ある間柄なのですね。歴史を見ていくと色々な「つながり」があって面白いですね。